人生を都合よく考えてみたら、こうなった。

ネガティブな現実は、導きだった。

問題は、私が作り出している。
問題とは、現実と理想のギャップ。

それをネガティブに捉えると、問題になる。
ポジティブなら、成長のチャンスになる。
それだけのことだった。

現状維持を願う自我にとっては、
成長なんて迷惑でしかない。

だから、問題にしているだけで、
解決策がないわけじゃないんだよね。

どれも現実的ではないから、
選択肢がないように感じている。

実行するためには、
とてつもない努力が必要だったり、
寝る間を惜しんでやらなきゃならなかったり、
やったところで見返りがなかったり、
コストがかかり過ぎたり。

実利がないから、やりたくない。
それが、本音。
それが、問題にする理由。

そうやって、やりたくないことを
問題にしてきたんだろう。無意識に。

現実的に考えれば、問題。

なのだけれど、
現実的に考えるから、
問題になるんだよね。

問題って、自我の限界だ。

現実的な可能性が見出せないのは、
これまでの経験では、太刀打ちできないから。

自我が見る未来は、
成功する可能性の高いものばかり。

今の自分で成し遂げることのできない未来なんて、
想像するだけで不安と恐怖に潰される。

だから、自我には見えない。
成長した先の未来は。

見えるのは、代償のデメリットだけ。

なので、自我には超えられない。
問題と認識した時点で、やりたくないんだもの。
それが、答えなんだもの。

自我の限界を突破するのは、
自我を解放する意識。

自我ではない方の私。

私なんていない。

体も思考も心も、全部地球の一部に過ぎない。

自我は、与えられたデータによって、
生き延びる為に最適化されたキャラ。

キャラであるはずの自我が苦しむのは、
整合性が保てないから。

現実。社会。出会う人々。環境。自然。

どれもが多様過ぎて、
何が正しくて、
なにが最適解なのか、
決められないから。

判断の基準を、
世の中にあるルールやデータや経験からしか
選べない自我は、先の見えない未来に怯えている。

その自我を解放したいと思う。
それが、意識。たぶん。

自我の濃度が薄まる程に、
意識としての私が濃くなってゆく。

自我の限界を知らせる問題は、
解決するものではないのかもしれない。

自我を解放し、意識に戻るタイミング。
それを告げているだけなのかも。

現実的に考えると、試練になる問題も、
非現実的な意識なら、切り替わるだけ。

問題なら解決しなければならない。
けれど、意識からしたら、
それは問題ではなく、成長のチャンス。

自我を超える。意識の拡大。
問題を解決した未来の自分を知る。
不安や恐れに妨げられることなく。

自我と意識の見ている未来は違う。

自我にとっての問題は、
意識にとっては成長。

成長した先の未来を予測できるから、
現実と向き合える。

自我の解決案をやるべき理由ができる。
もっと簡単で手軽なアイデアが浮かぶ。
頑張らなくても、引き寄せられたりして。

意識である限り、私たちは無限だ。
無限の可能性でしかない。

それは、意識が求めているものが、結果ではないから。

本来の自分に帰ること。
自我ではない自分を知ること。

問題は、それを知らせるサイン。

自分を知り、愛を知り、
たどり着く世界を知る。

意識にとっての人生は、
そんなようなことのためにある気がする。

そこにたどり着くために、命を養う。
生活があり、仕事をする。
家や社会での役割を果たす。

命を繋ぐのは、たどり着くため。
人生で起きる全てが、導き。

社会的な成功とか、外見の良さとか、
意識にとってはもくてきではなく、手段なんだな。

欲望も、願望も、義務も、好奇心も、
好きなことも、嫌いなことも、
何をしたっていい。

選ぶのは、私。

何を選んでも、選んだ理由はともかく、
意識が求める先にたどり着くようになっている。

私の選択が、
どんなに利己的であれ、自己犠牲的であれ、
社会的であれ、非常識であれ、
乗り気であれ、嫌々であれ、
何を選んでも、そこへ向かうんだろう。

目的に沿っていれば、
ポジティブな現実が後押しする。

反していれば、ネガティブな現実に阻まれる。
見直しや、方向転換を促される。

そうやって磨かれてゆく。
ニュートラルな現実に近づいてゆく。

与えられた余計なデータを消去して、
生まれた瞬間のデフォルトに帰ってゆく。

人生というものを都合よく考えてみたら、
こうなりましたが、如何でしょうか?

思うだけで、
現実の問題が解決するなら、
すこぶる最高なのだけれど。

fumori

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