たぶん私の感じる寂しさは、自由を知らない。
ネガティブな感情が、嫌いだ。
不快になるから。
けれど、それらは、命を守るためにある。
なくてはならないもの。
そう思って生きてきた。
が、私が感じていたネガティビティは、
そんなレベルじゃなかった。
以前より、生きることが楽になって、
漸く気づいた。
一
幸せ、不幸せは、条件ではなく、心持ち。
なので、不幸な私が下を見ることで
安心していた誰かは、その時の私より
気楽に生きていたのかもしれない。
今の私みたいに。
逆に、憧れていた幸せそうな人だって、
心から幸せかどうかは、わからない。
そもそも、幸せを生きる基準に
していない人だっているだろう。
誰もが自分の信じる人生を生きている。
それが、生きることだと信じている道。
考えなくても、体現できる人もいれば、
考えては、失敗ばかりの私みたいな人もいる。
常識に縛られている彼を
不幸だと決めつけていたけれど、
安全圏で得られる安心感に気づいていなかった。
どんな生き方をしても、メリットはある。
条件的な不幸は、現実的なメリットの代償だったりする。
なら、どんな生き方をしてもいいのかもしれない。
娘として、妻として、社会人としての役割はある。
国家のルールやコミニュティのマナーを破れば、
罰を受ける。
私は日本の田舎育ちで、
どこに行っても噛み合わない人間だけれど、
それは、個である自分を認めてもらいたかったから。
けれど、本当に認めて欲しかったのは、
周囲の誰かではなく、自分だった。
私が、自分を認めて、赦して、信じて、
愛すればいいだけのことだった。
そのために、知りたかったんだよね。
人を介して、自分自身を。
知ることが、私の愛だから。
知らなければ、愛せないから。
そのために、人と違う私を知りたかった。
比較することで、
ジャッジすることで、
この世界に存在する
唯一無二の自分に出会いたかった。
それだけだった気がするんだよね。
二
比較やジャッジは、人との違いを知るため。
なら、
ネガティブになることはないんだよね。
なのに、
人との違いを断罪してしまうのは、
自分の正当性を主張したくなるのは、
同じでない不安?
孤独であること。
唯一無二であること。
オリジナルであること。
同じ人間でありながら、同じではない。
自分と同じ人間はいないという不安は、
独りぼっちの寂しさに気づいてしまうこと?
生きている限り、ずっと孤独であること。
寂しさからは逃れることはできないこと。
それを認めたくないのかな?
誰かに認めて欲しかったのは、
安心させて欲しかったのは、
私自身ではなく、可能性だったのかも。
孤独でない世界が存在するという。
私が理想とする世界で生きられるという。
そのために、自分と違う相手に
ダメ出ししていたのだろうか?
酷いな。
八つ当たりもいいところじゃないか。
出会った方々、ごめんなさい。
ただ、これが人の本質だとも思うのです。
自分と同じでないものを恐れるのは、
たぶん、本能だから。
差別をなくすことが難しいのは、
こういうことのような気もする。
見たことのないものに出逢ったら、
やっぱり怖いし、避けようとするもの。
差別するつもりはなくても、
自分との違いにビビるもの。
安心感を脅かされる。
理解できないことで生まれる恐怖。
それを認められないから、
言いがかりをつけて、安心したいのか。
自分は大丈夫だって。
四
本能的な恐怖を超越できるとは思えない。
きっと、心は震え続けるのだろう。
未知と出会う度に。
それでいい。
本当の気持ちを押し殺して、
強がって生きる必要は、もうないから。
そんな生き方を選んだのは、
そう求められていたから。
素直に慣なれない頑張り屋さんの誰かの心を、
その痛みを、苦しみを、分け合うために。
一人では背負えない重荷を、支え合ってきた。
それが、誰かといるメリットであり、デメリット。
シェアすることを負担に思いながらも、
手放せずにいたのは、
独りになることが怖かったのかな。
心の中に誰もいなくなることが不安で、
恐ろしくて、嫌だったのかもしれない。
依存していたのは、私。
私が手放さないから、誰も自由になれない。
相手も。自分も。世界も。
不自由と引き換えに、孤独を逃れてきた。
たぶん私の感じる寂しさは、自由を知らないから。
不自由であることを嘆きながら、
自由を恐れている。
自由と引き換えの孤独を。
私はどうするのだろう。
自由のために孤独を選べるだろうか?
fumori
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