私にニーズのある世界を引き寄せた結末。

現実が忙しい。
日曜日の朝に届いたメールから、
目まぐるしい日々を送っている。

ずっと見ないふりをしてきた現実が、
押し寄せてきてきている。

ついに、逃げきれなくなったか…
観念して、向き合うことにしたら、
なんだかんだでやってくれる人が現れたりする。

ありがたいし、不思議だし、
なんなんだろう。

視点を変えるために、
嫌な現実と向き合うために、
今ある現実は、私が創っている
という考え方は、とても有用と思っていたけれど、
もしかして、本当にそうなのかな、
と信じたくなるくらい抜群のタイミングで
問題が解決したりする。

もしも、今ある望まない現実を私が創り出している
のなら、私の無意識は、何を求めているのだろう?


身近に不幸な人がいるとする。

私がなんとかしなければ、と思っている。

なんで私が、という想いはあるし、
割に合わないし、不平不満は尽きないけれど、
大切だし、幸せになって欲しいと願っている。

…と、思っていたけれど、
この現実を私が創り出したとするなら、
誰でもない私が、その人の不幸を願っているということになる。

そんな筈はない。
と、思う反面、幸せになって欲しいの裏側には、
その人が幸せでないと、私も幸せじゃないという想いがあった。

人は一人では幸せになれない。
相手の幸せが、自分の幸せ。
とか、いいことみたいに言われているし、
鵜呑みにしていたけれど、
本当にそうなのだろうか?

自立した精神の上での相手の幸せを願う気持ちは、
おそらく、自分の幸せに還元されるのだろう。

けれど、私の相手に幸せでいて欲しいって気持ちは、
少し違う。

相手が不幸だと、幸せになってはいけないと感じる。
相手が幸せなら、私にも幸せになっていい。

相手の幸不幸と私のそれがリンクしているから、
幸せになるためには、
私が相手を幸せにしなければならなくなっている。

それを愛だと履き違えていたけれど、
その根源は寂しさや悲しみを埋める情。

寂しさを知っているから、放って置けない。
悲しみを知っているから、冷たくできない。

愛だと思っていたのは、情だった。

私の情は、依存であり、甘えだ。

必要として欲しい。
関心を向けて欲しい。

たぶん、その辺の情で繋がっているから、
相手の幸不幸を私が担うことになったのだ。
頼まれたわけでもないのに。

幸福を願いながら、不幸を願ったりして、
向こうからしたら、いい迷惑じゃない。

なにをしてるんだ、私。

そこに至って、ふと思い出した事がある。

少し前、願っていたのは、
「私にニーズのある世界」だった。たぶん。

その結果が、今ある現実なのだとしたら、
求められる状況だし、必要とされている。否応なく。

想い描いていた世界とは違うけれど、
確かに、ニーズのある日々ではある。怖っ!!

ごめんなさい。取り消します。
こんなにもニーズなくてもいいです。すみません。

という気づきがありました。

自分に繋がれない状態で相手の幸せを望もうとすると、
無意識に埋もれた寂しさや悲しさがコネクトして、
相手を不幸にしかねない。

なので、相手の幸せに責任を負わない。
負える範囲は、私の幸せだけ。

私が関わらなくても、みんな幸せだし、
私が関わっていても、幸せにしようとしなくていい。

相手の幸せより、自分の幸せにコミットする。
そのスタンスで居続ける。

それが出来ていれば、
ナチュラルにしていることが、
相手の心を満たすことだったりするのかもしれない。

他者の世界に、干渉しない。
良かれと思っても、侵害することはあるから。

幸せにしようという想いに力みがあるなら、
自分のネガティブな想いを拾い上げるために
相手を不幸にする可能性があるのかもしれない。

耳障りのいい願いの裏側には、
私の中のネガティブな想いが隠れている。

気をつけよう。

いつか、ナチュラルに誰かを幸せに出来ますように。
たぶん、これまでだって、そうしてきたことはあるはずだから。

力まずに、ナチュラルに、自分以外になろうとせず、
自分の幸せにコミットしてゆこう。

誰かを不幸にするくらいなら、
利己的だと誹られる方がましだもの。

情けは愛ではない。
けれど、ネガティブにも、ポジティブにも偏らない
中立なポジションから意図せず行う情を
愛と呼ぶのかもしれない。

fumori

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