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唯一無二の真理があるとすれば、自分なのかもしれない。

愛されたい。
そう願うようになったのは、いつからだろう。

幼い頃の私は、愛されて当たり前だと思っていた。
恥ずかしながら、100%自分が大好きだった。

なので、誰かに愛されたいなんて、
思ったことすらなかった気がする。

嫌われることを恐れて、言葉を呑み込んだり、
自分を偽ったりしなかった。
叱られても、反発できたしね。

渋々言いなりになるにせよ、
違いを恐れたり、傷ついたりしなかった。

私が世界の中心だと、信じていた。
今にして思えば、
自分であることは、最高の気分だった。

それが、強さの秘訣。たぶん。


そんなパワフルだった私も、
今では人に嫌われることを恐れ、
無難に生きることを目指して、
肩身の狭い日々を送っている。

社会に適合するために、自分を偽り、
大人らしきキャラを演じている。

本来の自分のままでは、
社会で生きられないから。

同時に、偽りの自分でいることに
生きる意味を見出せずにいる。

生きるために擬態したものの、
擬態したが故に、生きる意味を失った。

私は、何のために生きているのだろう?

自分として生きられない世界に、
なんの価値があるのだろう?

そんなネガティブな思いに囚われている。

人という有限の器に縛られることによって、
私は何を得たいのだろう?

逃れられない生と死を経験することで、
得たいものって、なんだったのだろう?

私たちは、
寿命という時限爆弾を抱えながら、
生きることを強いられている。

たぶん、有限であるからこそ、
得られるものがあるのだろう。

生きることは、感じること。

死後の世界があるかどうかはわからないけれど、
私が設定しているそこには、安らぎしかない。

全てが満たされ、
歓び以外を感じられない世界。

そうだといいな、という希望なのだけれど、
それが叶うなら、生きている間くらいは、
色んな感情を感じてもいいのかな。

歓び以外の感情を知るために
生まれてきたのかもしれないね。
手段として。

なんで感情を知りたいんだろう?

対極を得ること、かな。

ネガティブな体験の深度によって、
ポジティブな領域も広がってゆく。

精神の深みを知るため。
精神を拡大させるため。

それには、有限な肉体と
逃れられない宿命が必要。

だとすると、
ネガティブな体験は、必須な模様。

もちろん、嫌だよ。
自我の私は、そんな経験したくないもの。

なのに、
ネガティブを避けようとする程に、
ネガティブな現実がやって来た。

なぜなら、
ネガティブにハマるほどに、
精神は拡大してゆくから。

それが、目的?
本来の、大いなる目的だとしたら…

嫌なんですけど。

そんな、自我の反発さえ見込んで、
ネガティブな体験へと誘われていたとしたら?

もしかして、自我すら演者なのかな?

自我がコントローラーでないのなら、
私の人生を動かしているのは、誰?


自我が求めているのは、保身。
命を維持するための存在。

なので、エゴは、敵ではない。

けれど、時を紡ぎ出す命は、
絶えず変化してゆくもの。

保身を選んでいたら、時に置いていかれる。
エゴの選択は、いずれ失敗にたどり着く。

エゴすら演者なら、
エゴの言いなりになり失敗を重ね、
精神の拡大を目論んでいるのは、誰?

まさか、私の魂じゃないよね?

私が不幸でも、精神が拡大するからウェルカム
なんてドSな魂、嫌なんですけど…

ただ、そんなスタンスで不幸を受け止められるなら、
生きやすくはなるよね。相当に。

メリットはあるけれど、嫌だよ。

そもそも、なんで精神を拡大させたいのだろう?

それを目的として多感な人間に生まれたのだとしたら、
私は相当に価値のあるネガティブな体験をしてきたよ。

精神なんて宇宙レベルに膨張しているし。無限だし。

無限の精神を手に入れて、
私が果たしたかった目的って?

ネガティブな感情は、比較やジャッジによるもの。
人との違いに傷ついたり、恐れたり。
だからこそ、愛されて安心したかったり。

他者を理解したいと思うのは、
違いに怯えないため。

というのは名目で、
他者とは違う自分を知りたかったのかも。

誰とも違う自分の個性を理解して、
自分を愛したかった、とか?

なら、3歳児のままでいればいい。
自分大好きでいることが目的なら、
問題にはならないはず。

なぜ、自己主張を咎められる
時代に生まれたんだろう。

人との違いを異端とする
同調圧力の強い日本の村社会
生まれてきたんだろう。

自分自身とは真逆にある
謙虚な日本の文化から、
なにを学びたかったんだろう?

自分を表現できない苦しみには、
どんなメリットがあるのだろう?

自分を偽る居心地の悪さは、
どんな気づきを与えようとしているのだろう?


私にとって居心地のいい世界。

歓びだけでは生きられない人間にとって、
どんな世界なら幸せに生きることができるのか。

その答えではなく、問いを生み出すためだったのかな。

私という個性が望む世界。
理想を思い描くこと。

そのために、
自分を愛することが必要で、
そのために、
自分を知ることが必要で、
そのために、
精神を拡大することが必要で、
そのために、
ネガティブな現実が必要だった。

としたら、
自分の理想の世界観を生み出すために、
理不尽な現実ばかりを選んで生きてきた
ってことになってしまうのだけれど…

なんて悲しい人生よ。
そして、なんて豊かな人生だろう。

不幸な現実さえも、
死なない限りは人生のヴァリエーション。

残念なことに、
それさえ豊かさってことになってしまう。

全てが愛なら、
不幸すら愛のスタイルの一つだから。

もちろん、嫌だけどね。


もしかしたら、目的はなんでもいいのかも。

理想の世界を思い描くことによって、
意識が変わり、今ある世界に新しい視点が生まれ、
その目線から得られるなにかが、目的なのかも。

理想の世界は、今はない世界。
そこにいれば、安心できる逃避先。

本当の目的は、安心できる居場所?

うん。確かに。
私はずっと求めていた。

縋って安心できる唯一無二の真理みたいなもの。

それさえ守っていれば、裏切られることはない。
死と同じくらい確実で絶対的な概念。

人や組織が関与しない信仰みたいなもの。

けれど、
有限な命とは別に、無限の命もある
ということにしたらさ、
時代と共に願いが叶ってゆく様を体感したらさ、
全ての願いは、今、ここに叶えられているって
思えるようになったらさ、
縋るものなんていらないんだよね。

自分だけでいい。
今、ここに存在する自分を頼ればいい。

それだけのことだった。

私が求めていた真理って、
絶対に安心できる居場所って、
裏切ることのない自分でいること。

今、ここに存在している自分を信じること。
信じられる自分でいること。
自分を裏切らないこと。
偽らないこと。
味方でいること。

その先にあるご褒美は、
自分への愛が世界に波及して、
世界を愛し、世界から愛される現実を生きること。

私が望む世界と、私が願う世界は違う。
結果としては、たぶん、同じ。
豊かで、和やかで、愛に溢れた世界。

望んでいるのは、物質的な豊かさや成功。
得たものを使って、自分の願いを叶えること。

なので、望む世界で、願いを叶えることは可能。
ただ、願うものを見誤る可能性が高い。

願う世界は、満たされ、溢れる心。

責めず、裁かず、
誰もが自分の好き嫌いを
偽ることなく表現できる世界。

自分って最高と当たり前に思って、
世界って最高って思える私たちがいる。

無限の精神は、良くも悪くも豊かなのだ。
現実とは無関係に、豊かさで溢れている。

自我が安心できる程度の収入さえ工面できれば、
心の豊かに、今ある幸せを生きることができそう。

理想の世界を創り上げようなんてしなくていい。
目的は、手段だから。

宇宙が膨張し続けるように、
私の精神も拡大したいだけなのだ。

人間の本能みたいなもので、
抗うことなんてできない。きっと。

拡大して、愛して、愛されて、
また拡大して、もっと愛して、もっと愛されて、
またまた拡大して…

人と違う唯一無二な今の自分を
信じ切ることができたなら、
世界は変わっているんじゃないかな。

そんな気がするのだけれど、どうなんだろうね。

fumori

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