手放すのは感情ではなく、感情を利用し私の中に葛藤を生み出すシステムなのかも。

ネガティブなことばかり考える自分が嫌いだ。
なので、マイナス思考を手放そうとしてきた。

ネガティブな自分。
マイナス思考。
それを生み出す価値観。
生み出された過去の解釈。

手放せる限りは、手放した。

それでも、時折、
ドキッとするような嫌な思いが浮かんでくる。

やりようがないので、
思うだけは自由にすることにした。

理由を探ることをやめ、
そう思うのなら、それでいい。

淡々と手放せばいいや、と。

それが、内心の自由だと思っていた。

原因を求めないことで、
なんとも言えない不快感は、
言葉として通り過ぎてゆくようになった。

ドキッとするけれど、
心が痛くなるまでではなくなった。

ただ、手放しても、ふとした時にやって来るわけで、
寿命が尽きるまで、こんな不毛な言葉の攻撃に
晒され続けるのは嫌だな、と思った次第です。

私自身が思ってもいない、
心当たりすらない言葉に悩み尽くして、
一つの仮説が生まれた。

体感ではなく、それを言語化することで
感情が生み出されているのかもしれない。

言葉そのものを疑うようになった。

言葉が感情を生み出しているのなら、
体感の翻訳を間違えている可能性もある。

思考は、経験から短絡的な判断をしがち。

私が感じている感情は、体感の真意とは限らない。

なら、
ネガティブな感情や、
マイナス思考を手放しても
意味はないのでは?

感情も言語も間違いなら、
手放したところでなんになる?

望んでいるのは、真意を汲み取る事。
本当の気持ちち気づくこと。

なのだけれど、
体感としての本音を
瞬時に言語化出来ずにいる。

時間をかけても、
解釈できない事の方が多い。
残念ながら。

ネガティブな感情というのは、嫌なもので、
なんとか感じないようにできないものか?
と、考えを巡らしている。

つまり、それなのではないかしら?

私は、ネガティブな感情に耐えられない。
感じたくないと願っている。

気づいて欲しいのは、本音ではなく、
その信念と願いなのかもしれない。

恐れたり、不安になる必要のないものに怯えている。

なぜだろう?

私は騙されているのかな。、
望まない翻訳によって生み出された感情に。

そうすれば、留まっていられるから。
自分を責めたり、怖がったりして、
変化することを諦めるから。

危ないことをしないから。
安心していられるから。

変わらないでいてほしい。

それが、私の本音。本能。

手放すのは、過去への執着。
安心していたいと言う欲望。

自分のメリットのためなら、
自分自身でさえ欺こうとする本能。

コントロールされていたのは、理性。

理性が本能を抑圧していると思っていたけれど、
逆だったのかもしれない。

私の本能は、強烈なのかも。
無敵状態なのかも。
絶対王政のクイーン。
何人たりとも、逆らえない。

とは言え、
本能に支配られた恐怖政治にはうんざりだ。

手放したいのは、過保護な安全思考。
私の幸せは、冒険に出ることではない
と主張する怯えや怠惰。

なにより、そんな弱くて打算的な
自分の本性を認められないところ。

本音は、体感に宿る。

信念も感情も、解釈や言葉に支配されているだけ。
ネガティブな感情を嫌だと思うのは、
ジャッジすることで、望む選択に仕向けるため。
自分をコントロールするため。

なら、感情や価値観を手放しても、ダメなのでは?

ネガティブな感情に対して、
不快だと思う反射を利用されている。

無数の選択肢の中から、
安全策を選ばされていることに気づくこと。

望まない選択に誘導されていること。

安全と引き換えに、好奇心が死滅してゆくこと。

生命力が削られてゆくこと。

身の安全のためにネガティブを過剰に恐れ、
それにより、精神が滅んでいること。

肉体的な危険と、精神的な危機。

今の私は、肉体を守ることで、
精神を腐らせている。

安全も冒険も、
どちらも人生には不可欠。

どちらかが欠ければ、共倒れ。

全てが作戦なら、ネガティブな感情に、
怯えなくてもいいのかもしれない。

安全に生きたいと願っている
臆病な私がいるたけ。
私を守ろうとしてくれているだけ。

そんな怖がりのくせに、
冒険に出たがる好奇心旺盛な私もいる。

どちらも、私だ。
私の幸せのために存在している。
心の中にいる自分は、全員味方。

そうは思えない最低な自分も、
命のために生み出された人格。

最低と思うのは、
人間の世界観で判断するから。

全ては、繋がっている。
現実は、私のために存在する。

嫌な現実だって、
なにかしら私にメリットがある。

学びを促されているのなら、それは愛だ。

理不尽な現実と戦ってきた。
けれど、相手は現実ではなく、
私自身の成長を阻む執着だった。

安全でいたい。
そのためにできない自分でいること。

幸せになることも、
許されることも、
認められることも諦めて、
力のない弱い自分を選んで、
安全でいたかったんだよね。

心の中の葛藤は、
私を分断し、力を奪い、
生存欲求を利用して、
変わらないでいることを選ばせる作戦。

言葉としての感情に怯えなくていい。
私たちが対立しなくていい。
代理戦争に巻き込まれないで。

私たちは、戦わなくていい。
葛藤に騙されないで。

私は、安全でいたい。
けれど、冒険もしたい。
自分で責任の取れる範囲で、遊んでいたい。

手放すのは、ネガティブな感情ではなく、
それをよくないものとジャッジし、
感じてしまう自分を責める観念。

私の中にある支配構造。
最高権力者の言語。

言葉によって、感情は生み出されている。

本音は、体感に宿る。
本音は感じるだけのもの。

私の中にある言葉や価値観や観念は、
世の中を生きるためのものであって、
私自身ではない。

私以外に騙されないで。

私自身とつながらない限り、
どれほどの叡智も、
自分を縛る情報に成り下がる。

自分と繋がり、
世界に溢れる情報から
人間の叡智を受け取る。

知識に支配されるのではなく、
本質を見極め、世界を幸せにする。

私を幸せにすることで、
世界の幸せを増やしてゆく。

誰かの幸せのために、
自分に犠牲を強いるのではなく、
相手の幸せに踏み込まず、
自分で自分の幸せを生み出したい。

与えられる幸せか、
生み出す幸せが。

私はちゃんと選べるだろうか。

自分の中に葛藤を生み出すことなく、
情報や感情に支配されることなく、
私自身の幸せを知り、
それを体感できるといいな。

fumori

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