私がわかっていることは、相手のためになることではなく、自分や親が喜ぶことだった。
心の中から自分以外を追い出してみた。
驚くほど、安心した。
ずっと他者の価値観で生きてきた。
自分の感覚を信じられなかったし、
自分の感情を認められなかった。
私の中には、
こうでなければならない自分がいた。
理想の自分なんかとっくに捨てたはずなのに、
こうあらねばならない自分は消えてはいなかった。
理想とか、向上心があるから。
と思っていたけれど、間違いだった。
間違えてはいけないのは、
そうでないと損をするからだし、
正しくあろうとすることも、
そうある方が得だから。
社会のルールを押し付けられた。
そんな被害者のふりをしながら、
結局は、守った方がメリットがあるから。
打算や欲得なんだよね。
リスクを避けることは、悪いことではない。
なのに、保身を向上心に書き換えたり、
本能を我儘や不要な価値観としてきたから、
おかしなことになっている。
生存欲求より自己実現に価値を置いたりするから、
採用した価値観が対立して、混乱している。
優先順位がわからなくなってしまった。
なので、仕切り直そう。
私自身でいること。
それ以上のプライオリティはない。
最優先は、私。
今、何を感じているのか?
生きてゆく上で必要なことって、自分の本音だった。
失ってみて、それに気づいた。
一
人といると居心地が悪いのは、
自分の存在が相手にとって負担になる
と無意識に刻まれているから。
心当たりがありすぎる。
ここにいるだけで相手に負担をかけてしまうから、
有益な自分であろうとする。
相手が笑っていないと、不安になるのも、
私といることが負担だと感じているから。
私が悪口や愚痴に耐えられないのは、
誰かの悪口を聞くほどに、
自分はそう言われないように、
とルールを増やしてしまうからなんだ。
他人に貶されないようにというルールが、
こうあらねばならない自分のルーツ。
私がなりたい自分ではなく、
そうであれば傷つけられない自分。
保身のためであって、
成長するためではない。
先ず、そこを見誤っていた。
傷つけられたくない私は、
愛されたかった私。
その自分がいるかいないかで、
同じ現実でも、受け取り方は真逆になる。
例えば、他者の役に立とうとする。
困っている誰かを助ける。
その行為自体は同じでも、
愛されたかった私は、自分の中の
こうあらねばならない自分に従っている。
その自分像に背くことは出来ない。
出来るけれど、罪悪感が半端ない。
なぜなら、他人に有益な自分でいなければ、
私はここに存在してはいけない気がするから。
理由なんかない。
そう感じてしまうんだもの。
そうせざるを得ない。
選択肢なんかない。
相手に喜んでもらえたなら、
その瞬間は生きていられる。
けれど、ありがた迷惑扱いされたら、
堪らないよね。
存在意義がなくなってしまう訳だから。
表面上、仕方がなかったと思っても、
内心、自分を責めずにはいられない。
そして、こうであらねばならない自分が
上書きされてゆく。
愛されている私には、余裕がある。
他者に好かれようが、嫌われようが、
自分はここにいてはいい。
自分の存在意義や理由に、他者は関係ない。
当たり前にそう思っているから。
だから、相手に有益なことをするかどうかを
自分で選ぶことができる。
やらないも選べる。
逆に、不利になることだって、選べる訳だ。
そのくらいの自由度の中で、
誰かのためになることを選んだとしたら、
相手が喜んでくれなくても、
自分の選択が間違いだったと思えるだろうし、
次回はもうしなければいいだけだし、
相手に対して非難するのだってアリなのですよ。
同じ行為でありながら、結果は真逆だ。
自分に縛られ、相手が誰であろうと
望むことをせずにはいられない。
失敗したら、自分を責め、更に縛りを強化する。
相手を手を差し伸べるかどうかから、選べる。
相手によって対応を変えてもいい。
好きだから手伝う。嫌いだからやらない。
道徳に反していても、それはそれと思える。
どんな選択をしても、失敗しても、
自分が選んだ結果として、得るものを見出せる。
同じ行為から導き出される真逆の結果。
最初の立ち位置が違うだけ。
無意識にある自分像。
「何もしなくても、ここにいる自分には価値がある」
そう感じられないまま大人になったなら、
自分で満たすしかない。
つまり、一つ目の理由は、自己愛の欠如。
そして、二つ目の理由は、
「自分の努力で、相手を喜ばせることができる」
と、思い込んでいること。
確かに、親なら出来る。
生まれた時からの付き合いだもの。
けれど、出会う人全てを
理解することなんて、できないよね?
それをできない自分を責めて、
どんどん自分を縛ってさ、
こうあらねばならない自分でいたら
安心できるはずが、逆だったじゃんね。
相手のためがなんなのか、
私にはわからないんだよね。
私が相手のためと思ってやっていることは、
親か自分のためになることだと思うよ。
だから、良かれと思ってやったことが、
相手に迷惑がられたって、
「そうなんだ、ごめん」
で済む話なんだよね。
そんな言い方しなくても…
って傷つかれても、困るじゃんね。
自分のために相手に嘘つかせるのもおかしな話。
自分がしたことで、
相手がどう思うかは、
相手の領域です。
だから、
私は、自分がいい、と思うことを
すればいいんだよね。
自分の評判のためでなく、
相手のためにしたことなら、
ありがた迷惑でも心は汲んでもらえるし、
そうしない相手とは、付き合わなければいい。
そっか。
私は心が汲めないから、
人付き合いができないのか。
うん。腑に落ちた。
自分が人を喜ばせようとしているから、
同じように喜ばせてもらいたいんだわ。
大切なのは、してくれた内容であって、
喜べないものなら、要らないんだよね。
相手が自分に対して
温かな気持ちをもっていることより、
自分が喜ぶことを察したからどうかが、
重要なのかな。
同じレベルで、
相手が喜はなかったら、終了。
勝ち目のないギャンブルをしてたんだ。ずっと。
二
誰かといて、居心地が悪いのは、
相手に気を使いすぎるから。
他人のために、自分を不快にさせているから。
私が欲しいのは、
誰かの承認による安心感ではない。
人に認められなくても、
ここに存在していることを当然と思っていること。
ありのままの自分でいいと思えること。
できない自分を見守れること。
それが、ありのままの他者を認めること。
自由に選択するためのベース。
相手のためになることなんか、私にはわからない。
だから、私がいいと思った選択をする。
全ては、私が選んでしたこと。
なので、相手に喜ばれなくても、それはそれ。
迷惑だったら、謝ればいい。
良かれと思ってしたのだから、罪悪感はいらない。
こうしたらよかった。
それに気づくための、課題。
不足していた思慮と経験を補うための現実。
そのくらい都合よく考えていても、いいのかも。
なんて対処法はわかったのに、
今の私には、本音の声が聞こえない。
こうあらねばならない自分に
押し込められた本音を待っている。
自分の設定を変える。
現実の認識を変える。
そして、本音に従う。
魂の求めに応じる。
そう約束して、待っていよう。
自分を偽らないように。
偽ってもいいか。
本音を知ることはできるはずだから。
結果ではなく、行動する前に、
本音の声が聞こえるようになればいい。
いつか、それが当たり前になればいい。
fumori
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?