不満だらけの人生は、投げかけられた優しさだったのかもしれない。

自己肯定感が低いと、現実は苦味が増す。

甘い夢の中にあるそれは、
スイカやあんこの塩みたいなもの。
少し入れると、甘味をより感じられるから。

自己肯定感が減り、自尊感情が脅かされると、
自尊心が裏返って、プライドに成り代わる。

プライドは、目減りした自尊心を補い、
命である自尊感情を守る。

が、なにせ手段を選ばない。
プライドの主は、あの自我だ。

あることないこと吹き込んで、
でっち上げて、妄想して、
私にとって最も耳触りのいい
納得しやすい理由を紡ぎ出す。

自我が見せる現実は、
とてつもなく苦しいけれど、妙に甘い。

私は悪くないし、むしろ正しいし、
なのに、現実は不条理で、あの人は…

承認欲求が満たされない現実とも
辻褄を合わせてもくれる。

現実は悲惨でも、私は悪くない。
いや。悪いこともあったけど、
それは、仕方のないこと。
相応の理由も見繕ってくれる。

自我は、いつだって弱い心の味方だ。

たぶん、私だけではない。
私たちは、そんな弱さを抱えている。

なので、自己欺瞞に陥っていたとしても、
面と向かってそれを指摘する人はいない。

指摘されても、
自覚できないと知っているから。
下手に口を出して、
プライドを傷つけでもしたら、
自我は、攻撃と復讐の鬼と化す。

大人になる程、見て見ぬ振りをしで、
距離を取るようになる。

トラブルを避けるためでもあるけれど、
弱さを責めないのは、優しさだ。

ただ、その優しさは、
自我の甘さとよく似ている。

居心地の良い場所に逃げ込み、
優しさに甘えて、ぬくぬくしている。

そうやって依存している間は、
苦い現実に耐えるだけで済むから。
何もしないでも赦されるから。

なら、耳に痛い言葉が、
やけに心に響くのは、
目を覚ますためかもしれない。

依存先でうたた寝している本心に
驚くほど響く。痛みを伴うくらいに。

なぜ、あんなにも腹が立ったのか?
赦せないほど、恨めしかったのか?
不幸を願うほど、執着したのか?

その執着は、本当に相手に向けられて
いたのだろうか?

私自身の中に、手放せないシコリはなかった?
感情を生み出すフィルターに、傷はなかった?

自己欺瞞の甘い夢の中にいる限り、
苦い現実は続き、逃げ込んだまま、
何も成さないまま、人生を消費する。

口も聞きたくない。
何もわかっていない。

そう決めつけて、はねつけた時、
何を言われたんだろう。

もしかしたら、
心が震えるほどの怒りは、
夢の中で甘えていたあの時の私に、
一番優しい言葉だったのかもしれない。

もう、思い出すことはできないけれど、
支配や押し付けだと思った言葉の中には、
私に憎まれてもいいから伝えたい何かが
含まれていたのかもしれない。

多分、愛と呼ぶものが。

優しさは、甘い毒。
寄り添うだけでは、相手をダメにしてしまう。
優しいと思う人が、真に優しいとは限らない。

必要な時に、
必要とされるものを、
伝えられること。

心を動かす言葉を、かけられること。
気づくためのサインを与えられること。

なら、不満だらけの人生を送ってきた私は、
数えきれないほどの優しいい言葉を
投げかけられてきたことになるのかな?

そうは思えないし、
トラウマからのやっかみも、
単純な悪意もあっただろうし、
単純に私がポンコツだっただけというのも…

不快に感じた全てが優しさではないけれど、
私が思う以上に、愛だった気がしてきた。

優しさは、勇気と似ている。

大切だからこそ、言いにくいことを口にする。
撥ね付けられた優しさは、痛みを伴う。

言葉と一緒に、
自分を切り売りするようなものなのに、
報われず、恨みを買ったりもする。

勇気がなければ、優しくはなれないのだとしたら、
私は、どれだけの言葉を届けられただろう。

どれだけ勇気を出せたのだろう。

 fumori 

#やさしさを感じた言葉

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