私のプライオリティは、寂しさを埋めることだった。
今を否定しないために、
今以上を望めなくなっていた。
そんな制限を自分に課していたから、
動き出せなかったのだと気づいた。
今以上の幸せを望むという事は、
得た幸せと同じだけの不幸を味わうということ。
世界と私は対等なので、
得られる幸と不幸は、当然同量になるから…
そう決めていたから、私が。
けれど、私の対等は、そっち方向じゃない。
私に幸せを許すなら、相手の幸せも許す。
私に豊かさを許すなら、相手の豊かさも許す。
例え、相手が私よりリッチで、
幸せに見えたとしても、許すと言うこと。
リッチな相手が、今より更にお金持ちになることも、
それがなんの努力もせず、宝くじに当たった
とかいう単なるラッキーによるものでも、
私自身に豊かさを許すなら、
許せる許せないを考えずに、
羨ましがったり、不平不満を言う前に、
サクッと許してゆくということ。
寄付をしない大金持ちを
ケチだと非難している私が
募金をした事がないとなると、
対等ではない気がするのですよ。
私にとっての1円や100円が、
お金持ちにとっての何千万だとしても、
金額や比率ではなく、
行為とか状態においての対等。
なら、
私より困っている人がいるのに、
幸せを望むのは贅沢だとか、
もっとリッチになりたいなんて欲深いとか、
思わなくていいのかも。
私が私に許す豊かさは、数値では測れない。
私よりお金持ちでも、そうでなくても、
互いの今の状況より豊かであることを願うことは、
それが1万円でも1億でも同じだから。たぶん。
私より幸せそうな人が、
もっと幸せになりたいなんて、欲の塊じゃないか。
身の程を知りやがれ。贅沢者めが。
なんて僻んでいたのは、
自分の豊かさや幸せを比較で測っていたから。
自分に対して、許す事ができなかった腹いせ。
完全なる八つ当たりでございました。
なら、もう少し欲張ってもいいのかもしれない。
今が不満だから、幸せになろうとするのではなく、
今に感謝しながら、もっと幸せでもいいことにする。
現実はさほど変わらないけれど、
以前ほど不幸ではない。
むしろ、
失いたくないと執着するくらいには、
幸せを感じているからこそ、
今以上を望めなくなっている。
不足から求めれば、
足りない現実に見舞われる。
今の立ち位置は、足りている。
なら、大丈夫かも。
その代わり、自分が求めた分、
同じだけ相手にも許してゆく。
妬ましくても、羨ましくても、そうする。
あとは、幸せになったとしても、
同じだけの不幸を引き受けようとしないこと。
私に不幸を許すということはさ、
相手にも不幸になって欲しいと願うも同然だから。
そもそも、不幸の要領も限界でしょうよ?
幸せな人々には申し訳ないけれど、
仕事に行きたくないというだけで、
世界の滅亡を願ってしまうくらいの
ネガティブっぷりだったのだから、
地上が天国にでもならない限りは、
釣り合わないでしょうよ?
これまでの不幸に見合う幸福を得られても、
全部を回収する前に命が尽きちゃうよ。
なので、安心して、欲張っていこう。
もっと豊かに、幸せに生きていい。
相手に許せる限り、自分を解放して。
対等に、自由に、豊かに、幸せに、心のままに。
誰もがそう生きられる平和な世界を願っている。
嘘臭さなく世界平和を願えるようになって、
誰かを好きになったり、嫌いになったり、
敵味方を判別する必要があったのは、
幸せのためだったのだとわかった。
私の幸せは、環境によって決められるものだった。
たぶん、寂しさを感じないでいることが、
私にとっての幸せだったから。
寂しさや不足感を感じることが、
不幸という認識だったのだろう。
寂しさがもたらす孤独、恐怖、不安、
言葉では言い尽くせない不快感は、
存在してはならないものだった。
私がずっと不幸で、
幸せを求め続けることになっていたのは、
埋められるはずのない寂しさを処理するために
現実を利用してきたせい。
誰かが味方や敵でいてくれる限り、
寂しさは喜びや怒りで埋まるから。
気づかないでいられるから。
無くすことはできなくても、
感じないではいられるから。
寂しさを感じることができるのは、
対極にある感情を知っているから。
なら、たぶん、
私は愛されていたはずなんだよね。
寂しさや辛さに比べると、
嬉しかったことや楽しかったことは、
とても少なく感じてしまう。
それが脳のデフォルトなら、
そんなネガティブな設定がなくても
生きられるくらい呑気な時代になるといい。
埋められない寂しさなんかのために
命を浪費することなく、
生まれた瞬間から死ぬまで、
自由に、対等に、豊かに、幸せに、
心のままでいられる世界を生きて欲しい。
望んで不幸を生きないで欲しい。
無意識に選ばされたりしないで欲しい。
どれだけ欲張ってもいいのかもしれない。
誰かから奪ったり、
自分を犠牲にしてまで与えたりせず、
互いに同じだけ許せるなら、
何を望んでもいいのかもしれない。
自分に許す限り、相手にも許す。
それが難しいなら、
相手に許せる分だけ、自分にも許す。
常識ではなく、相互の許容範囲を基準にする。
うん。少しは言葉の牢獄から抜け出せそうだ。
社会性のある多くの人々は、
なんらかのやり方で、精神を解放して、
案外、自由に生きているのかもしれない。
羨ましい限りです。
が、妬むのは、自分にそれを許せていないから。
なので、
誠に勝手ながら、私も自由にさせて頂きましょう。
あしからず。
fumori
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