自己否定さえしていなければ、自己肯定感は高くなくてもいいのかもしれない。

肯定と否定は、力のベクトル。
内向きの引力と、突き放す斥力。

現状を肯定すれば、引力が強まる。
否定すれば、斥力によって、反発する。

人間関係とよく似ている。

相手のことが好きなら、好かれやすい。
嫌いなら、相手からも嫌われる。

肯定は、味方を引きつけ、
否定は、敵を突き放す。

夢なら、
現状を肯定することで、実現可能な夢を抱く。
否定していれば、実現不可能な夢を見る。

否定と肯定も、単なる作用。
力の向きを指定しているだけ。
ものすごくシンプル。

なのに、
思考のシュミレーションと異なるのは、
自我の思惑が入り込んでいるから。

欲得や、正義、好き嫌いや、価値観。
個人的な趣味も。

そうやって、現実は複雑化して、
思い通りにならない人生が出来上がってゆく。

本来、人生はシンプルなのかもしれない。

一昨年の夏。
最低な自分を受け入れて、
自己受容らしきものができた。

自分を閉じ込めていた檻が消え、
これまで見えなかった世界が広がった。

前だけでなく、360°どこへだって
行けるようになった。
未来が自由そのものに変わった。

そして、私は途方に暮れた。

何処へでも行ける自由は手に入れたけれど、
何処へ行ってもいいわけではない。
地雷が埋まっていない保証はない。

安全なのは、
これまでの延長線にあるルートだけ。
それじゃ、進む意味もない。

自由を手に入れたのに、
一歩も踏み出せなくなってしまった。

その理由が、わかった気がする。


人生に苦労するのは、自己肯定感が低いから。

生活と命の保全が確保されているなら、
自己肯定感の高い方が、人生はうまくいくと思う。

なのに、
未だ否定しないでいるのが、精一杯。

肯定することに抵抗が強いのは、
マイナス思考のせいだと思っていたけれど、
そうしている方が安全だから。

あの時の私には、危険だったから。

肯定は、引力。
望むものを引きつける。

けれど、自我のジャッジを排除し、
あるがままの世界を肯定すれば、
望まないものまで引きつけてしまう。

世界には存在していて、
それを肯定できるものだとしても、
私の人生には、不要なものだってある。

全てを肯定するのは、容易い。
けれど、不要なものを見極めるのは、難しい。
私の自我には、それを見極める力がない。

未来を創造するために必要なのは、
自己肯定感だけではない。

必要なものを肯定し、
不要なものを否定できること。

引力だけでなく、
否定の斥力も躊躇なく使えること。

そして、その境を見極める目。

肯定。否定。見極める目。

それが揃って、初めて自由な未来を
歩き出すことがができるようになる。

怖がりでネガティブなのは、斥力の強さ。
周囲と反発することで、距離を置き、
安全を図っている。

ビビってばかりで、疑いやすいから、
肯定できるものは少ないけれど、
思い込みは強い方。
肯定したものに対しては、引力強めと思う。

圧倒的に不足しているのは、
要不要を見極める目。

この世界に存在していてもいいけれど、
私の人生には、要らないもの。
それを、決める。捨て去る。

人生は、片付ける時の私そのものだ。

もしかしたら、使うかも…
アルバムが、昔の漫画が…

捨てられない。気が散る。
違うことを始めて、目的を忘れる。
面倒臭くなる。明日でいっか?
先延ばし。

どういう人生を生きてゆくのか?
志というか、ビジョンがない。
だから、選べない。捨てられない。

未来に期待できないのかな?

理由はともかく、
私に必要なのは、要不要を見極める目。
そのための、未来のビジョン。 

存在していてもいいけれど、
私の世界には不要だと、
捨て去ること選べる斥力。

もしかしたら、自己肯定感は、
高くなくてもいいのかもしれない。

肯定は、ベクトル。単なる、作用だから。
選んだら、引力を発動する。
思い入れが強ければ、引力も強まる。

そういう機能というか、
働きをもつもの。それだけ。

自己否定していない状態なら、
それで十分なのかも。

自己肯定感を高める30日間チャレンジ、3日目。

自己肯定感は高めなくていい、
という結論になっているのですが、
どうなんでしょうか?

 fumori 

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