命が紡ぎ出す時には、希望が含まれているのかもしれない。

欲しいだけあれば、満足できると思っていた。

けれど、そうではないのだろう。たぶん。
どれだけあっても、満足できないのだろう。

何もない私が言ったところで、
説得力は皆無なのだけれど、
欲しいだけ得られても、満たされないように
なっているのだと思う。たぶんね。

渇望することが、心の機能だから。
あるものを増やしてゆく作用。

満足したいから、望むものが欲しい。
それは、
今は満足していないということ。
満足しないが増えてゆく。

頑張れば、望みは叶うけれど、
本来の目的である満足感は得られない。

望みは、手段。
欲しかったのは、満足感。充足感。

望んでいたのは、素敵な人生でも、
理想の自分でもなかった。

望むほどに遠のくもの。
満たされた心。

足るを知るという言葉がある。

欲望にはキリがないから、
ある程度で諦めること、だと思っていた。

身の丈に合わない幸せ。
望むほどに貧しくなる心を満たすこと。

この程度の現実が相応なんだと言い聞かせて、
希望のないクソつまらない人生を送ってきた。

けれど、もしかしたら、
私が解釈を間違えていたのかもしれない。

諦めるのではなく、
今、足りていることを知る。

まぁ、字面は同じなのですが、
望みを諦めて、今ある現実で我慢する
のではなく、
足りていないと思っている今の状態が、
実は、既に足りているのかもしれない。

そんな可能性から、現実を捉え直してみる。

望む人生ではないけれど、
望みを切り離した現実は?

今日も生きている私がいる。
それだけ。

なら、勝ち戦だったのかもしれない。


自己実現の前に、生きることそのものが
私たちの役割の一つだと思う今日この頃。

望む人生ではないけれど、
今の時代は、とても好ましい。

幼い頃の私からしたら、
この10年の社会通念こそが、
求めていた奇跡そのもの。

半世紀前の常識は、今や許されることではない。

仕事をしながら、家事も子育ても全てやり、
自分を殺して、家庭や誰かに尽くし、
仕事をしない上司のエロ談義を笑顔で聞き流し、
お茶汲み、お酌は当たり前。

30になる前に結婚しなければ行き遅れだとか、
離婚するなんて、我慢が足りないとか。
なぜか、女性が離婚されるって表現だったもの。

女に生まれることって、デメリットしかなくない?
こんな世の中で、生きる意味なんてあるんだろうか?

そんな思いをずっと手放せずにいたけれど、
気づいてみれば、時代と共に社会が変わっていた。

私が何かした訳ではない。
ただ、嫌だと思っていただけ。
なのだけれど、未来の方が変わった。

私にとってというか、
私を含めたみんなにとって、良い方へ。

少しづつ、理不尽な世界は、変わってゆく。

もしかしたら、
私たちの命が紡ぎ出す時には、
希望が含まれているのかもしれない。

私たちの命が、無意識に希望を生み出し、
未来を選び、時代を生み出しているのだとしたら、
生きること、ただそれだけで、
命の役割は果たしていることになる。

なら、悪くないのかもしれない。
ただ、生きていても。何者でもなくても。
今の私でもいいのかもしれない。

きっと未来は、今よりも良い世界になると
信じられるようになれたのなら、
自分のための望みなんか
特になくてもいいのかもしれない。

なんかさ、諦観とか、妥協とか、
言い訳なのかもしれないけれど、
自分の望みが叶わなくても、
私の生きる世界が、未来が
望むように変わってゆくのなら、
それでいいとか思っちゃったんだよね。

今より素敵な世界を体感できることは、
幸福な奇跡だ。

望みを叶えても幸せにはなれない。
なら、幸せを体感することを目的にしても
いいんじゃなころうか。なんて。

そんな世界のために、
無理なく出来ることがあればしたいし、
今ある幸せを体感するのもいい。

何も為さなくても、思い悩むだけでも、
世界は寄り添ってくれるから。

なぜ、私は何かを為さなければならない
と思っていたんだろう。

なにを望んでいたんだろう?

自分自身の不足感を埋めるため。
足りないのは、現実ではなく、私自身の心。

そのいしきで、改めて今の状況を見てみれば、
リッチではないけれど、食うには困らないし、
幸せではないけれど、特別不幸なこともない。
不具合はあるけれど、命に別状はない。

望み通りとは程遠いけれど、
必要最低限は整っている。
今の私に必要なだけは、あるのです。

生活や老後を思えば、安心なんかとてもできない。
けれど、明日も健康で働けるなら、
欲しいと思うものを買う余裕はある。

足りると言っては言い過ぎだけれど、
主観的には足りないのだけれど、
今だけに限れば、多すぎず、少なすぎず。
それを、足りていると言うのかもしれない。

自分にとって、過不足のない状態。
身の丈のままに生きられるだけあること。

我慢したり、諦めたりするのではなく、
今の状態が、自分に相応しいのではないか?
と、考えてみる。

足りないと感じてしまうのは、なぜかを考えてみる。
望みを叶えても、幸せを体感できないのは、なぜ?

心の貧しさがなかったら、
自身の不足感を補う必要がなくなったら、
今のままの自分でいることを許され、
存在するだけで価値があると信じることができたら、
それでも、まだ、その望みを叶えたいだろうか?

人生のテーマは人それぞれ。
現実的に成功して、社会的な影響力がある人には、
今あるパワーを使って、為せることもある。

私のように、半世紀、人生を迷走して、
なにも為せず、この先、大きく変わるとも思えない人は、
足るを知るのもいいかもしれない。

諦めるのではなく、今の状態が、自分の器。
器いっぱいに、与えられている。
その視点から、幸福を考えてみる。

何もない人生を、
愛おしむことができるかもしれない。

知った上で、野望を抱くのもありだしね。

幸せに生きるためには、
望みを叶えるために努力するより、
どうしたら幸せを体感できるのかを優先してみる。

幸せは条件ではなく、状態。

存在そのものが奇跡なら、
生きている間は、基本、幸福ということになる。

そんな上手くはいかないけどさ、
希望という未来は、あるに越したことはないのだ。

 fumori 

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