命の存在を否定しなければ、それだけでいいのかもしれない。

自己肯定感を高める30日間チャレンジ。4日目。

自己肯定感を高めようとするほど、
そうじゃない方向へ導かれている。

2日目「なりたい自分になろうとするな」
3日目「自己否定していないなら、高める必要はない」

なぜ、そんな結論になってしまうのだろう?

私とは、個性という皮を被った命である。

けれど、私が自分だと思っているのは、
自我が作り上げた人格。

白紙の中央に自我がいるとしよう。

白と黒に塗り分けられたキャラたちが、
周囲を取り巻いている。

白は、自我にとって都合のいいキャラ。
世間に受け入れられやすい性格。
黒は、逆。都合の悪い曲者たち。

自我は、善良な光系キャラと手を組み、
自らも白い光となろうとする。
これが、理想の自我像。
自我の存在を証明するために、
そうなろうと日夜、努力している。

自我にとって都合のいい人格を肯定し、
都合の悪いキャラを否定し、排斥する。

追放してもいなくならないから、
闇系のキャラを光系に変えようと、
価値観を変えたり、解釈を変えたり。

それでも、真っ白にはならなかった。

合理的な自我にとって、
闇系キャラは使える奴もいるから。
人である限り、欲は尽きないしね。

黒い感情は、周囲の光が強いほど、濃い。

幸せそうな人を見て、羨ましくなるのは、
自分にはないから。欲しいと思う。

それがあれば、理想の自我になれる気がする。
そんな欲に捉われ、今の自分に不足感を抱く。
光と欲によって、闇は簡単に生み出される。

相手が得ている幸せが、
自我にとって良いものとされているから。

都合の良し悪しを決めているのは、自我。
白の人格を集めて、
光になろうとしているのも自我。

けれど、光が強くなるほど、
自分にはない光の存在に捉われ、
心の中に闇を生み出してしまう。

そんな動きがありそう。
動けば、反対の力が発生するなら、
動かない方がいいのかもしれない。


キャラの色分けは、オートマチック。

都合の良し悪しは自我が決めているけれど、
色分けそのものは、世間とか、常識とか、
普通とか、知識や経験なんかで、
振り分けられてしまう気がする。

なので、
価値観そのものの色を無くすことは
難しいかもしれない。
無意識は、数に流されやすいもの。

闇を生み出す動きを止めるには、
自我が選り好みをしないこと。

意識である限り、思考は止められないので、
都合の良し悪しを決めないとかではなく、
動かない。

光になろうとしたり、白い人格を集めたり、
黒キャラを消そうとしたりしない。

自分以外になろうとしない。
キャラを盛ろうとしない。
動かない。



さて、誰とも手を組まないことができたとしよう。

用紙に描かれた自我と白と黒のキャラは、
バラバラに浮いている。

宇宙の星々のように。それぞれに。
自我は、ぽつんと浮いている。

…浮いている、のかな?

誰とも手を組まなかったら、
自我って、何色?

白でも、黒でもない。
集まれば、光になったり、闇になる。
組んだ相手の量で明暗が決まる。

独りなら、染まれない。
何色でもない?
無色透明?

独りになったら…
自我、いなくない?

自我もだし、人格。私も。

私という自我が、色んなキャラを取り入れて、
私という自我の人格を作っている。

そう思っていたけれど、今、あるのは、
白と黒で色分けされた価値観だけ。
キャラでも、性格でもない。

自我と価値観が組むから、人格になる。

としたら、自我がないなら、
あるのは色分けされた価値観だけ。

しかも、色分けしているのって、
世の中のその他大勢。

世間が勝手に決めた価値観を、
そのまんま受け取ってること?

え、なんだろう。
自我ですらない。私の価値観、どこにもない。
完全なるマスコミダンサーじゃない。

価値観って、自我が選ぶもの
と思っていたのに、
自我そのものが存在しなければ、
世間的な善悪の価値観しかない。

なに、このシュール。

自我も、自分なりの価値観も、
存在しないことになってしまった。


世間的が色分けした価値観だけの世界。
それでも、今、こうして私は生きている。

自分なりの価値観がなくても生きられる。
なら、それでいいのかな?

自分の価値観がなくてもいいなら、
自己肯定感が高くなくても、いいのかも。

自己肯定感は高い方がいい。
そんな価値観があるだけで、
私も自我も存在していないらしいので。

命の存在さえ否定しなければ、
あとの価値観は、
さほど重要ではないのかもしれない。

 fumori 

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