もしかしたら、愛されたかった私は、社会に順応できない私だったのかもしれない。

焦ることが苦手なくせに、
いつもギリギリになってしまう。

急いでいるのに、
ほぼ毎回、忘れ物を取りに戻る。

出かける度に、慌てている。
そんな自分は好きではない。

が、自覚しているより、
相当に嫌っていることを知り、驚いた。

焦る自分や、
忘れ物をする自分に対しては、
寛容になれたと思う。

それは、母に「ルーズだと言われ続けた私」を
自覚していたから。

けれど、合理的でない自分に対する
ジャッジには気づかなかった。

たぶん、そういう私を母は責めなかったのだろう。

なら、合理的でない私を赦さないのは、
一体、誰なのだろう?


合理的であることは、大凡、悪いことではない。

だからと言って、
効率的でない私に対して、
頭悪いとか、ダメだとか、身勝手とか、
嫌がる理由がわからないとか、
わざわざ非難する必要もないのに、
している。無自覚に。

効率的な方がいいのに、なぜ、やらないの?

合理的且つ、効率的な自分でないと困る私がいる。
合理的であることが、正義になっている私がいる。

責めているのは、彼女だ。

焦燥感に駆られるのは、
彼女の声に責め立てられるからかもしれない。
無意識の中で。

合理的であることが正義なのは、
メリットが大きいから。

非合理的に生きていると、旨みがない。
だから、なんとしかして従わせたい。

困っているのは、母ではない。
私を従わせたいのは、社会に順応したい私。

彼女は、社会に適合しない私に辟易している。
言いなりにならない私を、恐れている。

なぜなら、社会に適合しない私が、本性だから。


無自覚に私を非難していたのは、
社会に順応したい私だった。

私は、彼女の正しさを当たり前だと思っていた。
出がけにバタバタする自分が謎でしかなかった。

事前に準備する。
5分前に出る。
アラームをかける。

手段はいくらでもあるのに、
身につかない。

それは、なぜか?

それが、私の本性だから。
そっちが、私自身だった。

合理的な彼女は、
アドバイザーにすぎない。
どちらの方がメリットがあるか?

問題は、私だった。

私が、社会に順応することを当たり前だと思い、
私自身、社会に適応していると思い込んでいた。

だから、会社行きたくないとか
愚痴をこぼす自分が意味不明だった。
どうせ行くのに。
言っても、無意味なのに。

いやいやいやいや。

私は、会社行きたくない人間なのです。
働かなくていいなら、
働きたくなんかないのです。
それが、私の本性なのです。

むしろ、行きたくない仕事に
遅刻せず出勤しているのだから、
大したものなのよ。

本性に背いて、頑張ってるのだ。

日々、社会に順応しようと、
頑張って生きているのだ。

なので、合理的でないからと言って
避難するのは、お門違いなのです。

確かに、遅刻はデメリットだけれど、
ギリギリだろうと遅刻していないのなら、
上出来なのですよ。

やりたくないことを頑張ってやって、
達成している訳なので、
むしろ褒めてもいいくらいだ。

遅刻する自分は、ダメ人間だと思っていた。
けれど、それは、
遅刻しない私がデフォルトだったから。

遅刻する私が、本性でした。

なので、
遅刻しない私は、本性に背いて、
社会に合わせて、頑張っている私なのです。


愛されたかった私は、
母に愛されなかった私ではなく、
社会に適合しない私だったのかもしれない。

損得で考えれば、デメリットしかない本性だ。
そんな自分を責めていたのは、私。

母は小言を言っていただけで、
愛してくれていたのかも。

遅刻することが本性だとしても、
大人になった私は、ちゃんと一人で起きて、
支度して、遅刻せずに出勤している。

母のお陰だ。

母親が子供を起こすのは、
当然の役目だと思っていたけれど、
そんな訳ないじゃんね。

ちゃんと愛されて育ったのだろう。

真実じゃなくてもいい。
私に都合の良い過去でいい。

誰も憎まず、恨まず、
幸せだったと懐かしめる過去がいい。

事実は変わらなくても、
違和感なく解釈できるのなら、
感じたい過去を選ぼう。

私の本性は、社会に適応しない。
それを認めたら、過去が変わった。

私は、何を見て、どう感じて生きてきたのだろう。

生きているのが辛いのは、
私自身を見誤っていたからかもしれない。

現実を理不尽に感じていたのは、
合理的でない私に、
合理的に生きることを強いていたからかも。

どんなにゲスい自分でもいいから、
高くも、低くも見積もらないでいられたら、
現実はどれだけ優しくなるだろうか。

fumori

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