心が苦しい本当の理由について。

苦しみは、理想とのギャップ。
なら、理想に到達すれば、苦しみは解消される。

そう思っていたけれど、
たぶん、そうじゃない。

確かに、理想も現実との間にギャップがある状態は苦しい。
けれど、今、私が感じている苦しみは、
そんな前向きなベクトルではない。

後ろ向きな、内向きな、否定の方向性。

理想があるから、苦しいのではなく、
苦しいから、辻褄の合う理想とのギャップ
という理由を後付けだ。

理想に向かって努力すれば、
苦しみはなくなる。

努力していないから、苦しいまま。
でも、努力したくないんだもの。
なら、努力ができない私が悪いよね?

思考の世界では、整合性がとれているから、
苦しみが続く理由すら、説明できてしまう。

理屈は合っている。
けれど、理想も、ギャップも、
努力しない私が悪いのも、ぜんぶ嘘。
辻褄を合わせるための方便。

真実は、苦しいという体験と、
努力したくないという想い。

努力したくないのは、しなくていいってわかっているから。
苦しいのは、肯定できない自分がいるから。

赦し、認め、愛そうとしても、
それを覆し続ける思考パターンがある。

自己否定を作り出す構造が仕上がっている。

気づいて修正しても、日常に埋没していると
いつのまにか自分を否定する方向に舵が切られている。

設定を変えても、自動的に切り替えられる。

私の苦しみは、
思考パターンによって生み出し続けられている。


脳は、整合性を求めている。

なので、辻褄を合わせるためなら、
出来上がっている世界観を守るためなら、
私自身を悪者にするのを厭わない。

私を悪者にして、世界を守ろうとする。

私の体感している苦しみは、
悪者にされ、無かったことにされた私の苦しみ。

気づいて欲しい。
赦して欲しい。
認めて、愛して欲しい。

気づかなければ、愛せない。

私の苦しみは、怖がりな自分。

怖がる事を、許せなかった。
強がって、意地を張って、
頑張って、努力して、
そうじゃない自分でいなければならなかった。

理由なんて、どうでもいい。
私は、怖がってはいけなかった。
怖いと言ってはいけなかった。

だから、強がって、意地を張って生きて来た。

そんな頑張って、去勢をはっていた私を、
私は責めていた。

もっと素直になるようにって。

素直になったら、怖がり続けなきゃならないのに。
そんな私を知らないくせに。
そんな私を、シャットダウンしたくせに。

私がいらないって言ったのに、
素直になって、怖がったら、
あなたはどうするつもりなの?

強いつもりでいるけれど、
私は驚くほど弱いんだよ?

鈍感にならなきゃ生きられないくらい
私の感性は過敏に反応するんだよ?

自作自演の安全な苦しみで手一杯なのに、
感覚を解放したらどうなると思う?

ほら、怖いでしょう?

思考は、私の感性を閉ざしておきたいらしい。
論拠のない感性を信じて欲しくはないらしい。

そうだよね。辻褄合わないもの。
だからこそ、凝り固まった世界を変えられる。

思考にとっては、整合性を乱す厄介者。
完全世界を破壊するもの。

私を否定する事で、
成り立っていた世界なんかいらない。

怖がらずにいられる世界じゃない。、
怖がりな私が存在できる世界を選ぼう。

怖がりなままでいいなら、
強がらなくても、我慢しなくても、
ちゃんとしなくても、努力しなくても、
ただの私で生きられそうじゃない?

怖がりな感性で生きられる世界を選ぼう。

自分を否定する必要のない世界を生きよう。

全部の私が自由でいられる心を養おう。

それが、私の理想。
自分を否定するベクトルのない世界。

自由な私は、これまで以上にやらかすかもしれない。
現実での責任は、物理的な私が取ればいい。

ある状況にあって、
申し訳ないと思わない自分を冷たすぎると否定しなくていいし、
落ち込むほど申し訳なく思う自分に酔ったりしない。

想いは、巡るもの。
意味をつけて、感情を増幅させているのは、私自身。

自分を否定するのも、肯定するのも、
私が選んで、演じて、役に没頭してあるだけ。

理想を優先すれば、自分を否定することになる。
自分を優先すれば、辻褄の合わない世界を生きることになる。

整合性のとれた世界を選んでいたから、
理屈が合わない皺寄せの責任をとるために
自己否定に陥っていた。

辻褄の合わない世界を選べばいい。
論拠のない世界なら、矛盾する私たちも共存できるはず。

矛盾だらけの私なら、
矛盾だらけの世界を生きられるのかもしれない。

そうだといいな。

fumori


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