多様性は、私の心の中にある。

誰かに愛されたいから、
自分を愛せなくなった。

自分を愛そうと思うのに、
愛せないし、赦せないし、認められなかったのは、
愛されたいという欲を手放せなかったから。

心地よかったから。
心地よすぎて、
愛される事に依存していたから。

手放せなかったのは、
本来の私を愛さない世界への恨み。
その裏にある、愛されたい欲。
その裏にある、愛の心地よさ。

私が執着していたのは、
愛されている心地よさだったのかも。

過去の私は、
とても幸せだったのかもしれない。

この世界を拒絶したくなるほどの
心地よさを、味わっていたよかもしれない。

それ以外は要らない。
そう思うくらい、幸せだったのかもしれない。


愛される心地よさを求めて生きてきた。

誰かに愛されるために、
自分を愛せなくなった。

それが、私の苦しみだった。

自分であることを赦せないから、
誰かに愛してもらおうとしていた。

なぜ、私である事を赦せなくなったのか。
自分を愛せないのだろう。

理由は、もういい。
棺桶の蓋を開けよう。

出てくるのは、ゾンビ化した昔の私。
襲われるかもしれない。
恨みつらみを吐き出されるかもしれない。

けれど、それがなに?

彼女たちを失って、切り捨てて、
私が得たものって、何?

今の私に、何がある?

命があるということは、
生かされているということで、
可能性を生きているということ。

なのに、
やりたい事も、夢も、希望も、
この命を使う先が見出せない。

可能性を生きられるのに、
それだけで幸せなはずなのに、
向かう先がない不幸から抜け出せずにいる。

どのみち選べる先が不幸しかないのなら、
愛されない不幸を選ぼうと思う。

自分を愛すること選んだら、
私が見ている世界は、どう変わるんだろう。

ゾンビがウヨウヨする世界か。

それでもいいや。
すぐに私もゾンビになるだろうし。

運が良ければ、浄化の雨に降られたり、
聖水の泉にたどり着いたりして、
みんなで人間に戻れるかもしれない。

可能性を生きるって、そういうことかも。

誰かに愛されるための世界で
行き詰まったのなら、
愛されない私で生きてもいいサインかも。

自分を愛して生きていっていい。

そんなものに許可が必要かはわからないけれど、
私には必要だったんだろうね。

現実は答え。人生は必然。今日は最善。

生きてきた全てを肯定してみる。
愛されない私たちを生きてゆく。

命が尽きる前に、全ての私と出会いたい。
それが今の私の願い。

望んでいるのは、嫌悪したくなる自分をも
自由にさせられる心の広さ。深さ。容量。

どんな自分も、心の中で安心していてほしい。

この世界に居場所がなくで、
私の中なら、どこまでも自由でいられるように。

愛せなくても、制限することなく、
自由でいさせてあげられるように。

私が守るのかな?
むしろ、守られていたのは、私かも。

みんなは、とっくに自由だったんじゃない?
棺に閉じ込めたと思っていたけれど、
閉ざされた世界は、こっちかも。

独りぼっちで、寂しさに震えていたのは、
愛されようとしていた私の方だ。

みんなは、棺の向こうの世界で、
ダメ出しする人のいない世界で
楽しく生きていたのかもしれない。

いいな。
私もそっち側に行こう。

ダメ出しする人のいない世界と繋がろう。


棺桶の蓋を開ける。
全部の私に出会う。
全部の私で生きる。
心を私たちで彩る。

多様性は、私の中にあるのかもしれない。

fumori


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