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「努力すれば、夢は叶う」という価値観を手放そうと思う。

望まない現実を生き続けて、
半世紀が経ってしまった。

なにも成し遂げず、
たぶん今後もこのまま。

人生を諦めている訳ではないけれど、
人生に期待することに疲れてしまった。

もう裏切られて、ガッカリしたくない。

そんな自分に対する期待が薄れたら、
望み通りの現実を生きられそうな
仮説にたどり着くというアイロニー。

せっかくなので、語らせて下さい。

望み通りの現実を生きるために


先ずは、価値観を手放すこと。

「努力すれば、夢は叶う」

さも当然ように言われているけれど、
私には当てはまらなかった。

甚だしい勘違いだったし、
私にとっての努力とは、
嫌なことを我慢してやり続けた挙句、
結果が伴わない報われない頑張り
のことなので、やる意味がないのです。

望む現実は、努力では叶いません。


次に、望まない現実を、
不運のせいにしてませんか?

現実は、答えです。

過去の選択の結果が今の現実。
因果に応報されているのです。

全ては、私の選択によって生み出した因果です。
だからこそ、
選択次第で望む現実を創り出せるわけです。

今ある望まない現実を、ツキのせいにするなら、
現実は運によって左右されるものになります。
努力しても報われないのは、運がなかったから。
なら、努力するだけ無駄ですよ?

現実は、因果と運でできている。
と、今の私は思っています。

因果は、選択の結果。
そして、
運とは、今、生きていること。

小さな因果を解消するくらいの
パワーはあると思うのだけれど、
どのくらい運があるかは、
私には見えないから、
頼りにはしないでおく。

なので、ざっくりだけれど、
今、生きていれば、運はある。
と言うことなのだと思う。

過去の選択によって、
生じた因果がどれほど不幸でも、
今、生きているなら、回収できる。

運が尽きたら、
きっと不運は身に降りかかってくるはずだから。

望まない現実を不幸だと感じられるなら、
身は安全。命は安泰。

そう信じて、現実に向き合う。
クリアできると信じて、向き合ってみる。

できる前提で生きてゆく。
だって、この現実を選んだのは、私なのだから。

命ある限り、乗り越えられない現実は無いのです。


願望そのものを見定める。

生きている限り、選択は続く。
つまり、
選択による因果に塗れない
現実なんてないということ。

けれど、ハッピーな時期もあれば、
不幸のどん底を味わう時期もある。

その違いってなんだろう?

現実は、因果と運。
なので、ハッピーな時期とは、
因果を解消しきれるくらい運がいいのかも。

運がよく、運で賄えるくらいの望みだったということ。

逆に、ネガティブな感情に支配されて、
現実から逃げ出さずにはいられないほど
大きな因果に見舞われているのなら、
願望そのものが高望みだったのかもしれない。

現実に悪影響を及ぼすほど大きな野望は、
身の丈に合っていない妄執です。

なぜ、そんな大層な望みを抱くのか?

一つ目は、努力すれば夢は叶う
という価値観を信じているから。

二つ目は、叶わなければ、
運が悪かった、で済ませるつもりだから。

三つ目は、自分の中にある
不足感、無価値観、罪悪感を補うため。

四つ目は、失敗しても、
努力した事実は認められるから。

五つ目は、失敗するであろう選択をすることで、
変わらずにいられるから。

なら、望み通りの現実を生きるために、
これまで正しいと思っていた価値観を反転させればいい。

1.「努力すれば夢は叶う」という価値観を手放す。

2.命がある限り、乗り越えられない現実はない!
ということにしておく。

3.願望を見定める。
身の丈に合った望みを選ぶ。

不足感を補うためではありませんか?

結果より、過程を頑張ればいい
と思ってませんか?

変わりたくないから、
無駄な努力を選んでいるのでは?

思い込みを変えるだけで、
現実が変わったらラッキーだ。

運が味方してくれるといいな。

 fumori 


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