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現実も自分も、思い通りにはいかない。

昨日の私は、卑怯だった。
ズルいことをした。

ずっと心が痛かった。

そんな自分を許そう。
そう思うのに、そうはならない。

ああ言えばよかった。
ああすべきだった。

そんな正論が私を責め立てる。

それが苦しみの元だったわけだけれど、
その苦しみこそが、逃げだった。

仕方がなかった、からの、
私が悪いルート突入です。

悪い私の原因探しに忙しくなってしまう。

結局のところ、自覚していても、
ズルい自分を認めたくなかったのだ。

今日はたまたまひよってしまったけれど、
本当の自分はズルくなんかない。
そう信じていたい。

なぜなら、ズルい私は人から嫌われるから。

ズルいから嫌われるというより、
嫌われる私がいるから、言えなくなる。
後ろ暗い思いがある。

あと、自分に許すことは、他者にも許すことにしたので、
自分のズルさを許したら、そうされても許さなければならなくなる。

それが、嫌だった。
そうならないための言い訳。私は、悪くない。

結局、私は世界を信頼していないのだ。
それは、私を信頼できないから。

卑怯な私を、認めようとはしない。
言い訳をして、
都合の悪い私を何かのせいにしている。

あれは、私ではない。
それが、答え。


答えは、現実。
なので、あれが私。

自我が否定する卑怯な私こそが、本当の私。

そう考えていったら、
嫌われても当然と思えてしまった。

言い訳ばかり。ズルい。卑怯者。

それが、私。
そして、多分、多くの人が同じ自分を抱えている。

私は、それを葛藤している。
だから、あってはならないと思う。
嫌われる自分を隠しておきたいから。

許せないのは、嫌われる私、なのかな?

ズルさは、誰にでもある。
けれど、嫌われてしまうのは、
一部の問題のある人。

普通でない自分。

私は、自分を恐れている。
愛せないから、認めたくない。

どうしたら、そんな自分を許せるのだろう。

出会う人を、自分と思う。

心からそう思えたら、許せるかな。

私がいるから、自分以外の人が素敵に見える。

けれど、相手も私と同じズルいところや
都合の悪いところを隠している。

嫌われることを恐れている。
普通でない自分を隠している。

…だとしたら?

嫌われるのは当然だ。

けれど、出会う全ての人がそうだったわけではない。

なら、私は許されて生きてきたのかな?
本性を自覚する人々に。

本性を隠したくて仕方のない私を迷惑だと思いながらも、
相手の現実の中に置いておいてくれたのかもしれない。
自分の本性を許すために。

自我にとっては、耐え難い人は、
偽りの私を暴くための人。

自我から見たら、最悪でしかないけれど、
もしかしたら、起きている現実は、
ありがたいことなのかもしれない。

どうしたら、
相手の中に、同じ自分がいると思えるだろう。

どうしたら、
納得のいかない現実を受け入れられるだろう。

どうしたら、最低な自分を許せるだろう。

どうしたら、嫌われる私を認められるだろう。

どうしたら、
普通でない私を愛せるようになれるのだろう。

私を裁く自我と葛藤するのではなく、
より分け、傷つきやすい自我を
どうしたら愛せるのだろうか。

ジャッジが悪いのではないのかもしれない。
振り分けずにはいられないほど、傷ついている。

被害者ぶっているだけだとしても、
困っているんだ。

怖いのに、
独りでなんとかしなければならないから。

あれ?
じゃあ、ジャッジする自我を責めているのは、誰?

理想の自分を演じる自我と、
自我に押し込められた本性。

戦っているのは、どっちも自分だ。

どっちも、間違っていない。
けれど、正しくもない。

どちらも、ただの私だ。

戦わないで欲しい。
仲良くしていて欲しい。

そう願ってきたけれど、
きっと葛藤してしまうのだろう。

許す為に。許される為に。

無自覚な自分に気づく為に。

今日のところは、そう思っておこう。

fumori

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