主観しかない自分に悩んでいる。
顔色を窺うことは得意だし、
機嫌を損ねないように心を配るくせに、
他者が感じていることを
想像することが出来ない。
なので、顔色を読んでも間違えるし、
機嫌が悪い人には近づかないようにする
以外に手立てがない。
想像しろと言われても、
話している最中に別のことなんて
考えられないのですけれど、
他の人は違うんだろうな。
そんな性質をポンコツと呼ぶのなら、
私はポンコツなのだろう。
不本意だけれど。
そんなマルチタスクとは無縁なポンコツが、
視座という言葉を知り、納得した話です。
視野が狭く、視点が固定され、視座が低いと
自分の考えに固執するそうです。
まさに私のこと。
主観という視点を変えられないのは、
視座が低過ぎて、視野が広がらないから。
幼い頃からずっと視座が低いままなので、
私が見ている現実を
誰かに理解してもらうことは、
出来ないのかもしれない。
もしくは、簡単に理解できるから、
興味を持たれないのかな?
どちらにせよクセが強い世界観には違いない。
相当に私色が濃いオリジナルな世界観で
現実を認識しているのだろう。
だから、
言葉を尽くしても、伝わらないんだね。
誰だって、オリジナルな世界は持っていると思う。
けれど、オリジナル以外の視点や視座に移行できる
スキルがあるってことなのかな。
社会的とか、立場や役職とか、
家族や学校内でのヒエラルキーの順位とか、
状況を踏まえた上で全体として、とか。
考えただけで頭が爆発しそう。
なんでそんな器用なことしながら、
お喋りできるの?
視座という概念がなかったから、
主観しか拠り所がなかったにせよ、
他者の視点なんてわからないし、
状況によっても変わってくるし、
正解もマニュアルもないし…
一言で言えば、面倒くさくない?
なるほど。
私の視座が低いのは、
高く持つことが面倒くさいからか。
なんで面倒くさいかと言ったら、
深読みしても間違えるから。
連想ゲームとかで、
一人だけ見当違いなこと言い出す奴。
それご、私だ。
大多数の人が当たり前が、
私にとって非常識なのは、
視座がオリジナル過ぎるから?
あと、私自身の本音がわからないから。
感情を抑えているから、本音がわからない。
本音が曖昧だと、相手の本心も伝わってこない。
理屈で相手の考えを読もうとするから、間違える。
思考を読むなんて賢さは、皆無だもの。
自分の心がどう反応するのか?
たぶん、それだけでいい気がするんだよね。
違和感があれば気づくから。
考えなんか読まなくても、
共振していなければ、
違うんだろうとは察しがつくし、
自分の感情さえ見誤らなければ、
意見なんてどっちでもいいしね、本当は。
違いに耐えられないのは、
寂しさがあるから。私の中に。
それは、相手とは無関係で、
相手が埋めなければならないものではない。
それを、相手に求めていたから、
人間関係が面倒くさかったのかも。
それでも、共感してもらえると
寂しさが緩和されるから、
嬉しいのだけれど。
私は、他者の視点からものを
考えるということができない。
書き出すことで、
理解することはできるかもしれないけれど、
それをツールとして利用出来ないというか。
相手の表情を読みながら、
心と思考の両方を使って、
お喋りをするなんて、難易度高すぎ。
私の頭は、喋りたいことでいっぱいだし、
それを抑えることで必死だから。
なので、
視座は二つでいいことにする。とりあえず。
オリジナルな低い視座と、
欲の全てを肯定する愛の視座。
人である限り、愛の視座なんて
辿り着けないけれど、
私くらい低い視座だと、
誰とも分かり合えないということは
納得するしかないので、
もうね、私以外をまるっと
肯定する視座が欲しい。
私か、私以外か。
その区別だけで、どっちもアリ。
私には理解できないし、同調できなくても、
愛の視座から見れば、自分に固執して、
相手に腹を立てている愚かさこそ、
人間らしくて可愛いものかもしれないから。
理解しあえなくても、
傷つけ合うことなく、
互いの世界を尊重したい。
理解しなくてもいいなら、
視座の低いままでも、
できそうな気がするしね。
視座を高く持てないなら、
低いままでも社会に対応できる方法を
考えるしかないんだよね。
誰かになろうとせず、
自分を補うのでもなく、
今ある自分で出来ることを考える。
それができたら、
主観でしか生きてこなかったことが
メリットになるかもしれないんだけどね。
fumori
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