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不幸を意味づける自我と、不幸を体感する命。

人生に意味なんてない。
意味がないと存在できない自我がいるだけ。

理由が欲しいのは、自我だった。
もちろん、私の一部ではあるのだけれど。

愛して欲しい私はいるけれど、
愛されることが、生きる意味ではないし、
愛されなくても、生きる価値はある。

意味はなくても、価値はある。

やりたいことがなくても、
何かを生み出さなくても、
誰にも認められなくても、
生きることに意味を見出せなくても、
生きていることに価値はある。

むしろ、
存在を否定する方がおかしい。
と、前提を変えてみた。

だからと言って、
納得できない現実はやって来るし、
楽しく幸せなだけの人生ではない。

ただ、人生って、
こんなにも自由でよかったんだな、とは思う。

自我は、私という意識。
言葉を駆使して、
私というキャラを実在させようとしている。

なので、他社と比較しまくるし、
体験から価値観というデータを積み上げ、
ルールに背くものは、自他の区別なく裁き続ける。

挙句、今の私という社会不適合者を作り上げているのだから、
笑えない。否。むしろ、笑える。
誰からも愛されるキャラを目指したはずなんだもの。

私にとって社会は、
納得できないルールを守らなければならない世界だった。

だから、苦しかったし、理不尽だった。
不幸な人生でも、愛されないよりはマシだった。

少しでも幸せになるために、
価値観を書き換え、
幸福の概念を変えようとしたり、
愛されたい理由を探ったりした。

そして、言語によって、不幸を生み出している
ということにしてみた。

自我の言うことは、ほぼ嘘だ。

嘘でなくとも、切り抜き。
都合よく情報操作されている。

自我の世界観を守るために。
私と言う理想のキャラのために。
例え、不幸な社会不適合者だとしても。

というか、自我の世界観がそんな設定だから、
不幸な社会不適合者を体験しているのでは?

自我は、本気で幸せになるつもりなのだろうか?
不幸な世界観を死守していながら?
むしろ、
不幸であり続けたいと願っているとしか思えない。

現実の全てを評価し続ける自我の言葉を一旦放置してみた。

感情的な自我と、それを諭そうとする理性。
どちらも私という自我だ。

そして、自我ではない私は人というより、
地球の一部であり、命でしかなかった。

体という個体があるから、
地球に生かされている生命体という認識だったけれど、
この体も活動する命さえ与えられたものでしかなく、
私が望んで手に入れたわけではない。

自我の世界観からすれば、
この体も命も、所有しているものも、
仕事も、役割も、全部が私だ。

けれど、
自我の根底にある命さえ
私のものではないとしたら?

体感するために、命と体を与えられただけなら、
行動して、結果を体感するだけでよくない?

行動の結果や体感に意味をつけたり、
裁いたり、責めたり、偽ったりしなければ、
人生少しは平和にならない?

嫌なものは嫌でいいし、
文句言いながらやってもいいし、
ムカつく相手のいい所を探さなくていいし、
相手の不機嫌を何とかしようと思わなくてもいい。

体感することを、目的にしてしまえば、
どんなネガティブな感情も、
体感している以上、目的は果たせている。

望まないにせよ、
苦々しく感じていても、
感情的には不幸でしかなくても、
体感はしている。
それは、自我ではない意識からしたら、
幸せなことなのかもしれない。

不幸を体感している私は、
自我こらしたら、とんでもない悲劇のヒロインだ。
私には、幸せになる権利があるとか騒ぎ出すだろう。

体感できること。
それ自体が幸福だなんて、とても思えない。

むしろ、ネガティブな体感なんて、したくない。

ただ、不幸を生きている間も、
命があり、体があり、体感し続けているわけで、
それがなかったら、
そもそも不幸も体感できないわけで、
それがあるから、
いつかは幸せになれるという夢や希望もあるわけで、
幸せを体感したいなら、
今、不幸を体感している命も体も必要になるのですよね。

自我としては、不幸な体感なんてごめんだけれど、
命としては、体感できれば何だって幸せなのかもしれません。

もちろん、自我の願いが叶ったら、嬉しい。

どれだけ食べても太らない体とか、
不摂生しても健康でいられる体とか、
働かなくてもお金に困らないポケットがあるとか、
想像できることは実現するのなら、
今すぐ叶って欲しいことばかり。

けれど、望みが叶っても叶わなくても、
現実を意味づけする自我が存在する限り、
幸せも不幸せも、体験することになる。

なら、何でもありにして、
幸不幸の評価から自由になりたい。

愛されるために、いい人でいる必要もなく、
仕事のできない自分を裁くことで現実逃避せず、
評価を恐れて萎縮せず、伸び伸び生きていたいな。

不幸な現実にあっても、
体験しているというギフトに気付けたらいいな。

どれだけ望んでも、この命も体も手に入らない。
どちらも与えられたもの。
そして、いつかは消えゆくもの。

不幸な出来事ではなく、
不幸を体感できる命として、
生きられますように。

fumori

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