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価値観なんて、信念を失えば、ただの情報でした。

たぶん、私たちはそれぞれ異なる世界を生きている。

現実という土台は同じでも、
認識するためには、個性を通さなければならないから。

私の生きる世界は、
一つの事象が二つの価値観に分かれる相対的な世界。
日常とは、その二つの価値観のバランスを取ること。

これが、うまくできないのである。

相対的な価値観は、裏と表。
長所と短所みたいなもので、元は同じもの。

なら、最悪と思っている現実に、
奇跡的な希望を見出すことだってできるはずなのに、
そうはならないのですよね。

それが、価値観という罠。

例えば、本能の相対的な価値観について。

私の場合、倫理観とか、知性とか、精神性とか、
呼び方は違えど、「守るべきなにか」でした。

守るべき価値観を守るために、
本能に制限を強いたり、裁いたりして、
パワフルな荒ぶる本能の力を削いできたわけです。

けれど、そもそも生物である本能を
コントロールできるはずもなく、
溜まりに溜まった鬱憤は、
喜びや快楽で埋められることになりました。

節制を強いられることで、
誘惑に乗りやすく、依存しやすくなっているわけです。

そして、誘惑に負けてしまうことで、
価値観を裏切ってしまう。

罪悪感が溜まりまくる負のループの完成です。

さて、お気づきでしょうか?

ここでの相対的な価値観は、
制約と快楽であって、本能ではないのです。

どちらも本能に作用するものとして、
作用される本能との対極にはなるけれど、
そもそも制約がなければ、
命を削るほど快楽に溺れるかは疑問です。

三つ巴のように見せかけて、
実は、敵同士が手を組んで本能を操っている。

私は、ずっとハマっておりましたし、
今尚、ハマっておりますが、
これ、おかしいですよね?

相対的な価値観なら、ループにはならない。
横軸だけの移動なら、どこかで均衡は保てる。

抜け出せなくなるのは、
何かが、どこかが、間違っているから。

ずっと価値観のことだと思っていました。
正しい価値観なら、辻褄が合うはずだ、と。

けれど、どれだけ価値観を変えても、
ループから抜け出すことはできませんでした。

正しい価値観って発想が、
そもそも相対的ではなかったから。

あるのは、二つの対極する価値観であって、
それが、正しいか、間違っているかは、関係のないもの。

二つの価値観と、正誤、善悪は、別物。

なのに、一方を善とすることで、一方を悪として、
さも世の理のように受け取っていた。
二つの価値観を善と悪に振り分け、
善であることが、正しさだと信じていた。

善であるために、悪を否定し、
誘惑する快楽を悪とし、
誘惑に抗えない自分の弱さを悪とした。

悪にならないことの方が難しいですよ?

人としての弱さを赦してくれる神さまがメジャーじゃない日本で、
自己否定とか、罪悪感とか、苛まれない人の方が稀なのでは?

そんな私も、まんまと苛まれていますけれど、
天秤に載せられているのが本能なら、
正しかろうと、誤りだろうと、価値観では役不足。

価値観なんて、信念さえ失えば、ただの情報。
時代が変化すれば、いつかはフェイクニュースだ。

本能と釣り合いが取れるのが、精神性とするなら、
何が起きても、愛に溢れているくらいの慈愛が必要なわけで、
凡夫の私にそこまでは求められていないと思うのですよ。

本能と匹敵するくらいパワフルなものがあるとするなら、
私の場合、生命力くらいなもの。

たぶん、本能はコントロールされるべきものではなく、
命と等しく、共にあるもの、な気がしています。

ただ、命と違って、より現実に干渉しやすいものだから、
誰かの世界を侵害することを禁じているだけで、
本人の心の中にある限りは、何の制約もない。
というか、できないはずのもの。

本人が制約を許さない限り、
本能は自由でいられるはずなんだよね。

かといって、
制約のない本能のまま命を生きると、
人間としては問題を引き起こす。

だからこその社会的な価値観。
最後の最後の基準なんだよね。

望まない本能を含め、人の性として受け入れる。
その上で、他者の世界を侵害しないための基準を自ら定める。

それは、与えられるものではなく、生み出し、変化させてゆくもの。
アップデートのために必要なのが、情報と感性。

価値観とは、両者の狭間で生み出される個人的なもの。
社会的な価値観でさえ、結局は、パーソナルなもの。

だからこそ、自分の世界を広げなければ、
多くの人と共有できる価値観を生み出せないのかな?

もしくは、感度を高めて、
人に共通するコアに訴える作品に昇華するとか?

与えられた価値観を守るべきものとして信じていると、
本能は批判にさられがちで、負のループにハマって
人生がしんどい、という説、でした。

もちろん、本能のままに生きたり、
自分だけに都合のいい価値観でいると、
人に迷惑をかけたり、
嫌われて寂しい思いをするので、
幸せではいられないと思うのだけれど。

利己的な本能と釣り合うのは、
周囲の人の幸せに喜びを感じられる
他利的な本能の開花なのかな。

自分を犠牲にすることなく、
誰かを犠牲にすることなく、
自分で自分を幸せにできる人なら、
そういう世界に見えるのかな。
私が生きるこの現実も。

 fumori 

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