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人の役に立てる歓びは、今しか味わえないもの。

最悪の本性を自覚した。

最低な自分については認められた気がしていたけれど、
あんなの可愛いものだった。

卑怯で、卑屈で、萎縮した私は、最悪だった。

ありがたい事に、今、私の周囲には、優しく、
仕事も人間性もできた人しかいないので、
これまでのように人のせいに出来なかった。

自分を責めることしか出来ない上に、
その苦しみは、現実逃避を誘うもの
であることもわかっていた。

善人のフリをしたがる自我が、
傲慢な本性を隠すために、
星の数ほどの言い訳を考えてくれたから。

完全に逃げ場を失い、数日かけてやっと
最悪の本性を認めることができた。

それこそが、私だ、と。


最悪の私として振り返ったら、
世界には、優しさしかなかった。

ずっと理不尽だと怒り苦しんできたのは、嘘ではない。
けれど、卑怯で、卑屈で、ズルい、どうしようもない私を
受け入れてくれる大らかな世界だった。

極々、一部の人に限っては、
こんな私をも愛してくれている。たぶん。

全くあり得ない世界だ。

謙虚さや優しさを、
自己犠牲や迎合としか感じられなかったのは、
私自身を過大評価していたからで、その実、
無理して善人や自信のあるフリをしているので、
頑張っている自分を認めて欲しくて仕方がない。

もう、なんなんだろう。
恥ずかしくて堪らん。

出来ない自分の立ち位置にいるから、
頑張れるんだよね。

出来ない自分でいることを許されているから、
周囲の人々には感謝しかないし、
役に立ちたいと思うし、
出来ることを増やそうと思える。

やればできる自分でいるから、
出来ない自分を認められないし、
努力だけはしているから、
やってるつもりになってしまう。

相手の役に立てたかどうかより、
やれた自分に満足して終わってる。

なんの成長もなく、
できることだけして、
やった気になっていた。

そんな人生だったんだな。


ずっと不思議だった。

自分のやりたいことより、
人から頼まれたことを優先できる人が。

やりたくないなら、断ればいい。
人のために自分を犠牲にしないで欲しい。

出来ない自分を隠すことに必死だったから、
そうとしか思えなかった。

無理しないで。頑張らないで。

やればできる私を演じていたから、
できるフリをすることで日々、手一杯だった。

頼まれごとなんて、余計な負担でしかなかった。

こんなに頑張っているのに、
まだ頑張らなきゃならないの?

こんな世の中、おかしいでしょう?

そう思っていた。
実際、出来ないのにできるフリをすることは、
そりゃもう大変だったから。

けれど、できない自分がデフォルトなら、
誰かの役に立てることは、歓びなんだよね。

頼まれることは、出来ることだから。
できることをやって、
誰かの役に立てる自分は、歓びだから。

喜んでもらって、嬉しい。
もちろん、それもあるのだけれど、
人の役に立てる自分が嬉しい。
やれる自分が存在していることへの肯定。

それが、承認欲求との違いなのだと思う。

出来ることをして、誰かの役に立てたことと、
役に立てた自分は、同じくらい嬉しいこと。

誰かを笑顔にできたことと、
それを見て、私も笑顔になったこと。

与えられていることに感謝しているから、
与えることに歓びを感じられるというか。

そう思えたら、犠牲や承認欲求ではなく、
周囲への感謝に報いることができる自分への
尊敬とか、信頼とか、存在していることが有難い
という気持ちになれるのかも。

できない自分でいるから、
やれる自分に感謝できるのか。
自分へのリスペクト。

例え、誰かのためにならなくても、
誰かのためと思って失敗しても、
やった自分が存在しているということが
そもそもの歓びなのかもしれない。

私がいなかったら、
私が見ている世界は存在しなくなる。

できない事ではなく、出来ることをやる。

つまらないことや、やりたくないことは、できること。
なら、頼まれたら、やったらいい。

失敗しても、相手の期待に応えられなくても、
やろうと決めて行動する自分は存在している。
結果ではなく、やることのできる自分の存在自体が、歓び。

失敗して、謝って、責任を取ったらいい。

やった私が存在していなければ、
失敗することも出来なかったのだから。

人の役に立てる歓びは、今しか味わえないもの。

承認欲求を満たすためではなく、
存在する歓びを体感させてくれるもの。

誰かを笑顔にできる喜びは、ご褒美なのかな。

自分が存在している歓びがあって、
なにかしたら、誰かが喜んでくれて、
できなかったら苦しむけれど、
成長する歓びを得る。

自分が存在していること。
それが、歓びや感謝の基本。

どんなに未熟で、最低で、最悪な自分でも、
存在してくれるから、体感できる。

この体とこの命。
私と言う個性があること。

そんな私に、感謝したことなんてあったっけ?

自分が存在することに感謝がないから、
ないものばかりを見つけて、比べて、
産み育ててくれた親にも不満ばかりで、
もっと大切にして欲しいと願ってきた。

けれど、命も個性も、誰でもない私に
大切にして欲しかったんだろうな。

自分である事を否定しないで欲しかった。

今は至らない私でも、
これから成長していえばいい。

命があると言うことは、
それが尽きるまでは伸び代がある
ということなのかもしれない。

失うばかりの老いの旅路にあって、
物理的に動けるにも関わらず、
できない自分を演じているのは、もどかしい。

できる自分も、できない自分もいる。
最悪な私がいるなら、たぶん、最良の私もいる。
どちらも私。存在に優劣はない。

どんな私でも、存在することに感謝を。
私が存在する今日に歓びを。

また、命が尽きるまで
成長し続ける存在であるなら、
変化を余儀なくされる成長ではなく、
望んで変わる道を選べますように。

変化を恐れる私を、愛せますように。

fumori

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