現実は私のためにあるのかな?

忘れられない思い出は、
辛いことが多い。

それは、私の目線がネガティブよりだから。

楽しかった思い出だって、
沢山あるはずなのに、
思い出すのは、嫌な記憶だったりする。

今見ている所から、
視線を外せばいいだけなのに、
なぜか執着している。嫌なのに。

その理由がわからなかったのだけれど、
たぶん、嫌なことすら、
大切な思い出だからかも。

終わってみれば、
心弾む出来事と同じくらいか、
それ以上に、心が震えたから。

相対的な価値観を抜ければ、
心のボリュームが大きい出来事こそ
素晴らしい思い出になるから。

ラストに目覚めたアリスが、
全ては夢だったと知り、
不思議の国を懐かしむように、
本当に夢だったのか訝しむように、
今、私が体験している現実も、
終わってしまえば、
奇想天外な一つの物語みたいなもの
なのかもしれない。

だから、大切なのかもしれない。

けれど、今の私にとって、
それらの思い出に纏わる感情は、
なくてもいいもの。

悲しみに引きずられるくらいなら、
思い出はそのままに、
ネガティヴな感情は手放してしまいたい。

中庸を畏れていたのは、
何も感じなくなってしまうから。

けれど、魂のデフォルトが
歓喜や安らぎであるのなら、
全ての設定やルールを手放しても
現実に飽きずに済みそう。

職場が苦手だ。

仕事ができない。
人間関係が難しい。
上司の口が悪い。

正直、今日も行きたくない。
けれど、私は今日も行く。

仕事ができない自分は存在価値がない。

その価値観を手放すために。

私は人間関係が苦手だ。
人に嫌われたくない。

その価値観を手放すために。

相手の尊厳を尊重しなければならない。
誰に対しても丁寧な言葉遣いをしなければならない。
同じことを言うなら、より優しい言葉を使わなければならない。
仕事のできない自分は、何を言われても仕方がない。

そんな価値観を手放すために。

現実がタイトなのは、
私がルールにかんじがらめにされているから。

人に嫌われたくなくて、
認められたくて、
愛されたくて、
赦されたくて、
相手のルールを受け入れたから。

私の自我は、
私以外の価値観でできている。

だから、辛いのかもしれない。

全てのルールを心から追い出して、
自分でいる。
思うままにさせておく。

心の中にある限り、
私は完全に自由なのだ。

そんなフリーダムな私が
ネガティヴな感情を感じる方がおかしい。

フリーダムな私は、魂そのもの。
歓喜や安らぎがデフォルトだから。

現実は、私の中に居座る
不用な価値観を知らせてくれるもの。

そのくらいのスタンスで
仕事に取り組めたら、いいな。

誰かに何か言われても、
感情が揺れることなく、
寧ろ、面白がれたらいいな。

「なんでこの人、こんなこと言ってるの?」
「わけわかめ。ウケる」

そのくらい柔らかに社交ができたら、
楽しそうだな。

そうなったら、社交の達人じゃない?
現実に怖いものなんて、なくない?

人と和やかに雑談できるようになったら、
私は、なにがしたいんだろう?

fumori

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