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私が知ることのできる愛は、私を愛するためのもの。

私の90%は、
「愛されたかった私」でできている。

愛されたいが故に、人の価値観を受け入れ、
自分に我慢を強いてきた。犠牲かな?
虐待かもしれない。
自分ではない自分になろうとした。

愛されるために。
認められるために。
赦されるために。
生きるために。

そんな愛されたがりな私が、
父を諦めたのは、随分と前のこと。

母が亡くなってから、
父とはうまくいかなくなった。

伴侶のいない寂しさを
立場の弱い娘を利用して、
埋めようとしている。

当時の私は、そんな風に思っていた。
父の悲しみもわかっているつもりだった。

けれど、母を亡くした悲しみは、
私も同じなのだから、
寄りかからないで欲しかった。

自分のことで、手一杯だったから。
自分ではちゃんとやってるつもりだったしね。

言い争うことに疲れて、
波風を立てない日常を優先し、
父と本音で向き合うことをやめた。

それが、大人になることだと思っていた。

老いた父と向き合わざるを得なくなって、
母のいない寂しさを父に埋めてもらおう
としていたのは、私の方だったと気づいた。

お互い様だったけれど、
私には若さと人生に対する可能性があった。
母の死から目を背けることは、容易だった。

なにより、遅かれ早かれ、
親は先に亡くなるものだから。

伴侶の死とは、違う。

当時の私には理解できなかったけれど、
父の抱える寂寥は、私の比ではない。

余命宣告された母を看取り、
認知症の祖母を看取り、
定年を迎え、気づけば、
頼りにならない娘しかいないのだから、
そりゃ、目についてしかたかなろう。

地に足がついていない私が危なっかしくて、
口出しせずにはいられなかったのも、
失敗するのが目に見えていたから、
諭そうとしただけだったのかもしれない。

父にとっては、愛だったはずのそれが、
私にとっては、支配だった。
愛されたかった私を刺激した。
なら、父の中にも、同じ思いがあったのかも。

やり込めたいと思うのは、エゴの保身だから。


幼い頃の父は、私に甘かった。

だから、気持ちの上で断絶しても、
父の愛を疑いきれなかった。
切り捨てなくて、よかった。

愛したくても、愛せない人がいる。
残念ながら、私もその一人。

愛そうとすると、愛されなかった私が疼いて、
愛とは逆のベクトルへと向かってしまう。

愛されたいのに、愛されないし、
愛したくても、愛せない。
伝わらない。受け取れない。

そこから抜け出すために、
世界は存在するのかも。
自分とはかけ離れた価値観と出会うために。

家族が揉めやすいのは、
同じ価値観を共有していると
思い込んでいるから。
縛られているから。

連鎖する縛りは、反転して現れる。

それぞれの立場が、
入れ替わってゆくのに、
自分の役割に、執着するから。
抜け出せないから。
大切だから。
愛しているから。

愛していると思い込んで、
愛することを強要するから。

それは確かに愛なのに、
愛とは思えない想い形で現れる。

愛することを願うなら、
生まれ育った価値観を超越すること。
自分とは違う価値観に出会うこと。

怖いのは、当たり前。

不安だからと、
先の見える未来ばかり選んでいたら、
与えられた価値観に囚われてしまう。

先のことはわからない。
考えるほど、不安になる。

なのに、
やってみたい。行ってみたい。

それを、体験してゆく。
今ある価値観から抜け出して、拡大してゆく。

父とは違う価値観を獲得し、
子供の自分とは違う視点に立つ。

娘という与えられたポジションを降りる。

父から愛されたいという想いを手放し、
父から与え続けられている愛を知る。

今の私にとって、愛とは思えないそれが、
たぶん、父が与えられる愛であり、
受け取って欲しいもの。

私が拒否してきたものは、
父なりの愛だったのかも。

だから、
父の中にも愛されたい自分が現れた。


愛されたい私は、愛する私だった。

こうしたら満たされるのに。
こうして欲しいのに。
こうされたら幸せなのに。

自分が理想とする愛が伝わらないのは、
私仕様の愛だから。

私自身を愛するための愛だから。

私を愛していいんだ。
もう。やっと。

愛されたかったというより
私が自分を愛したかったんだ。

自分を満たす愛のカタチを
知りたかった、かな?

歪で欠けた心の隅々まで行き渡る愛を
探していただけだったのかも。

誰かを愛して、
それが伝わらないからと、
傷つかなくていいんだ。

私が知ることができる愛は、
私を愛するためのものだから。

私は、自分を愛したかったみたいだ。

誰かを愛するために、
自分を歪めるのではなく、
自分自身を愛するための愛。

それさえあれば、なんとかなるのかも。

嫌いな人を愛そうとしなくても、
嫌いというジャッジをなくそうとしなくても、
自分を愛することができれば、
他者の存在を否定しなくても済むのかも。

それが、私にとっての愛なのかな。

ただ、今、ここに存在することを
認めて欲しかっただけなのかな。

責めず、裁かず、
好き嫌いが許される世界。

そんな世界線に立つことができたら、
やっと交流できるのかも。

自分を失うことなく、
他者を否定せず、
価値観の違いを面白がれるのかも。

父なりの愛を愛として受け取り、
私なりの愛が彼に伝わるのかもしれない。

心からそれを願う。

fumori

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