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違和感の正体と雑談の効能。

メールに感じる違和感って、なんだろう?

知人の知人という遠い関係なのだが、
誰に対しても共感を持って接する優しい人…

なのだと思うのだけれど、
なんというか、嘘くさいのだ。

邪推だったら、本当に失礼極まりない。
私の心の醜さが滲み出てしまっただけなのだろう。

にしても、なんなんだろう?
読むたびにモヤっとするのは。

心を開いてくれていないから?
なら、私も同じじゃない。

かと言って、本音を言い合えば、
険悪なムードになるだろうし。

本音だけれど、争いを生まない。
そんな会話ができるといいな。

嘘ではなくて…?

別に、嘘でもいいのかな?

本音でない人には、
嘘でもいいのかな?

私は嘘をつきたくないけれど…
どうしたらいいのかな?


そして、ひらめいた。

私がしたくないなら、嘘はつかない。

けれど、相手が言う事については、
相手に選択権がある。
本当でも、嘘でも、どちらも選べる。

私たちに与えられている自由って、
そういうことなのかもしれない。

相手が嘘を言っている気がする。

それを問い埋めるのも、
気づかなかったフリをするのも
私の自由。

嘘をつかれた時は、
責めることも、許すことも選べる。
それと同じ。

何を選ぶかは、自分の選択。

嘘がいいとか悪いとか、
嘘をついた相手が悪いとか、
嘘をつかれた自分にも、
至らない所があったんじゃないかとか、
そういうジャッジや余計な心配こそが問題なのかも。

嘘をつくことを選んだのなら、
それは相手の問題。

嘘臭さを疑うか、
相手の言葉を信じるかが、私の領分。

そうやって、
知的なゲームを楽しむことが、社交なのかな?

大の苦手分野だけれど、
相手の腹を読まなくてもいいのなら、
これまでよりは気が楽だ。

相手の言葉と向き合った時に、何を感じるか?

違和感があるのなら、
嘘かもしれない。
気のせいかもしれない。

真意は、相手にしかわからない。

嘘をつくつもりなら、
そんなことない、と言うだろう。

他のことに気を取られて、
会話が疎かになっていたことに無自覚なら、
そんなことない、と言うだろう。

どっちも「そんなことない」だ。

その時、私はどうするのだろう?


あ。だから、雑談なのか。

だから、人は他愛のない雑談をするのかな?
嘘をつかなくても、気軽に交流できるから。
いや、嘘をついても害がない話題だから?

信じない、疑わない前提なのかな。
雑談って。

なら、なんのために喋るのか?

互いに無害であること。
互いの存在を確かめ合うこと。
認め合うこと。
そんな感じ?

なら、雑談を話しかけてくれる人って、
もしかして、私と仲良くなりたいと
思ってくれていたりしたのかな?

害はないし、敵ではないよ。

それが、雑談の真意なら、
私はその内容や言葉に気を取られて、
愚痴や悪口ばかりでうんざりだと辟易して、
自分から敵になりに行ってたりしたのかな?

だとしたら、ごめんなさい。
私って、ひどい女でした。

愚痴や悪口は聞きたくないけれど、
それは私の中にあるブロックだ。

愚痴や悪口を言ってはいけない。

それを手放すことができたら、
何も思わず聞き流せるようになるのかな。

ミスマープルのように、
大切なこと以外、聞き流せたらいい。

モモのように、
私心なく話を聞けたらいい。

構えず、作らず、演じることなく、
相手の話を聞けるようになれたらいいな。

雑談が得意になったら、人生楽勝じゃないかな。

fumori

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