打算も愛でいいのかもしれない。
愛されたかった私を救いたかった。
なのに、そこそこ癒されてきたら、
居なくなってしまうことが惜しくなってきた。
愛されたかった私が、人生だったから。
愛されたくて、満たされなくて、不満で不安で。
それが、選択の基準だった。
挙句、自分ではない自分になろうとしてなれず、
自分なんていなかったという結果に辿り着いている。
それが正しいとか、真実かではなく、
かろうじて整合性を保てそうな考えというだけ。
明日になれば、変わっているかもしれない。
そんなわけで、今の私からすると、
愛されたかった私も、
赦されたかった私も、
認められたかった私も、
どこにもいなかったということになっている。
過去に存在したことは事実だし、
今も私の心を刺激してくるので、
存在を体感はしているのだけれど、
思考が作り出した「私なるもの」を
体験しているだけなのだろう。
とてもそうは思えないけれど…
私なるものが、
脳が作り出したキャラだとしたら、
〇〇したかった私も、
キャラを演じる上での背景みたいなものでさ、
演者である限り逃れられない宿命になるのだが、
そもそも舞台に上がらなければ、
演じる必要すらなくない?
なら、
舞台を降りた「私なるもの」って、なんなの?
そんな「なんでもない私」が、
愛という存在なのかもしれないと思っている。
幼い娘が、冷たいアイスを父親の首筋に当てる。
イタズラ心なのか、暑いから涼ませようとしたのか、
彼女の心はわからない。
理由がなんであれ、微笑ましいと思ったのは、
相手に心を馳せたからこその行為だと感じたから。
そうすることで、相手はどう想うのか?
その眼差しが、愛なのかな、と。
「相手を喜ばせて、愛されよう」
そんな打算的な愛を否定して来たけれど、
側から見れば、単なる微笑ましい様子だったかもしれない。
行為の目的が、愛されることでも、
喜ばせるために相手を思うことは、
愛してるってことに近しい気もする。
期待が外れたら、
「愛されなかった」という解釈になるので、
双刃の剣ではあるけれど、
自己犠牲のない打算は愛の範疇な気がする。
問題は、
期待が外れて、相手を恨むこと。
相手を喜ばせるために、自分を犠牲にすること。
この曖昧な境界が、苦悩のもとな気がする。
自分軸で生きようとしても、
相手を想うと他人軸にならざるを得ないし、
相手から喜ばれたら、自分も嬉しかったりするし、
どこで線引きしたらいいか、今もよくわからない。
ただ、愛されたいから、相手を喜ばせよう
という打算はさ、相手を愛しているからなんだよね。
相手を笑わせたいと思うのも、
甘えたいのに意地を張るのも、
「私を愛して欲しい」ではなく、
「あなたを愛しています」
と告白しているようなものなのだとしたら、
相当に恥ずかしいですね。
恥ずかしくとも、打算だろうと、
愛に基づいていれば、まだ救いはある。
と、思いたい。
期待通りに愛されないから、恨むとか、
自分を犠牲にしてまで、相手の期待に応えたりすると、
打算を超え、支配の領域に入る。
ここは、
コントロールしたいとか、されたいとかの世界なので、
まぁ、苦しい。
しかも、愛されたいという本能と結びついて、
思考が万全のサポート体制に入るので、
出口のない迷宮を彷徨うが如し。
互いの世界を押し付けず、裁かず、
平和に生きていたいものです。
平和の代償が、
依存できない寂しさを
受け入れること、なのかな。
愛されたかった、という想いにしがみついていたのは、
依存している間は、独りにならずに済んだからなんだな。
苦しくても、寂しくても、
独りになる恐怖や不安よりは、安心だった?
苦しみや寂しさは、誤魔化しようがある。
相手や現実を恨んでいれば、生きていられる。
依存は、寂しさではなく、独りになる恐怖なのかな。
繋がりを信じられない状態。
相手と。自分と。世界と。
自分と繋がっていないから、相手を求める。
自分とは、欲望。
社会的に認められない欲望を抱えてしまう自分を
認められない。許せない。
社会に適合しない自分を愛せない。
社会にニーズがない。
社会にとって、他者にとって、
害を為す自分を愛すること。
それって、みんな当たり前に出来ているの?
私には、とてつもなく勇気が必要だよ。
打算でも、誰かを喜ばせようとする愛は、愛。
打算が、依存や支配に偏るのは、
私自身を愛する勇気を失ったから。
私を愛せないから、
誰かに愛して欲しくて、
相手の喜ぶことに目を向けた。
社会的でない自分や、都合の悪い自分を、
抹殺してきた自覚はある。
ダークサイドの自分を認めても、
愛していることにはならないのかな。
存在を認めることと、
愛することとは違うのかもしれない。
独りになる恐怖と不安を引き受ける覚悟。
その勇気が、私を愛するということ、なのかな。
都合の悪い自分や現実に挫かれるのは、
自分を愛していない世界だから。
アウェイな世界で生きているから。
自分を愛している世界では、
同じ現実でも体感が変わるはず。
私自身が味方だ。
そして、自分を愛している人は、
誰かを敵にしたりしない。
自分を愛せていないと、それがわからない。
自分さえ信じられない敵地で戦い続けているから。
自分を愛する勇気と、
誰からも愛されない敵地で生きる勇気。
どっちが勇敢なのかしら?
今の私は誰も救わないけれど、
メンタル的には、相当な勇者なのかも。
なら、役に立たない勇者はやめよう。
社会的でない自分を愛することに
勇気を使おう。
普通でない自分を、
表に出せない自分を、
自由にさせよう。
心の中では、完全に自由でいられるように。
愛するということは、理性なのかもしれない。
fumori
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