敷かれたレールの中で社会性を身につけていたら、自由な大人になれたのかもしれない。

人生は、目標や志を立て、それを目指すこと。
いつの間にか、そんな価値観に捉われていたけれど、それは社会や自我の目的。

現実に求められているのは、命を繋ぐこと。たぶん、それだけ。

やりがいのある仕事とか、社会の役に立ちたいとか、人生の使命とか、人並みの贅沢とか、もちろんあるに越したことはないし、並み以上の金満な贅沢だって味わってみたいし、権力握って媚び売られてみたい。そんな欲望を汚いとも思わない。

ただ、自力で健康で文化的な最低限度の生活を営めるようになったなら、次に向かうのは、社会的な目的ではない方がいいのかもしれない。


私たちの命が目指さず先は、個人の欲望を超え、社会全体への貢献に至る。

欲望を叶えることが、発展に向かうか、社会を崩壊させる方向へ働くかは、私には判断できないけれど、才能や個性を活かし、やれることをやる。それが、役割だと思っている。

仕事、家事や育児、学校、法律を守る、困っている人に手を貸すとか、今、出来上がっている社会のシステムに属していれば、それだけで社会に貢献しているということになる。

社会貢献するために、私に何ができるのか?
なんて、考えるまでもないことだった。

今更だけど、レールに乗るって、大事なことだったんだよね。
縛られることが苦痛で、脱線してしまったけれど、レールに乗っている間に、やれる範囲を身につけることが、本当の目的だったのかもしれない。

自分にできること、社会のルールを身につけたら、あとは十分に生きなさい。それが、学校教育の目的だったような気もする。


レールから外れていた私は、もれなく社会からも脱落した。
社会性が身についていないから落ちぶれたというより、そもそも社会性が欠落していたからついていけなかった気もするけれど、マジョリティでいなければ取りこぼされるのは、世の常。

多様性を重視する社会がいつから始まったのかわからないけれど、体感的に時代性は20年で変わっているので、生きている間には、レールから外れても生きられる社会になりそう。

問題は、時代の到来を待っていられない今の私。
レールから外れて、生活を賄える手段のない私。

不良品の歯車のまま、なんとか回ろうとして、ぶっ壊れてしまった。周囲にも迷惑をかけた。自分のどこに不具合があるのか、分からなかった。正直、今だってよく分からない。

そもそも歯車じゃなくて、ネジとか他の部品だったのかもしれないしね。


自分に何ができて、何ができないのか。

先ずは、自活する。その上で、自分を見極めてゆく。

食うに困らなくなると、つい社会的な成功を目指したり、欲望のままに生きてみたり、キラキラしてる人を目指したくなるけれど、それはレールに乗ってることが前提条件。社会のルールの中で、自分の個性を活かせる人の特典。

社会性に欠け、歯車ですらないかもしれない私が目指したら、心が目減りしてゆくだけ。

理由はなんであれ、脱線したリスクは、人生が負うことになる。
世の中が見せつける夢や希望に捉われず、歯車ではない私でもハマれる場所で生活を稼ぐ。

これが、私の目標。

 fumori 

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