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願いが叶ったところで、きっと私は不幸だっただろう。

現実は答え。
過去の選択と、運によって確変する。

悪気があったとか、なかったとか、
良かれと思ってとか、為になるからとか、
そういう道徳観念とは無関係に
私の現実は生み出されている。

生きることは選択し続けることなので、
生きている限り、自分が生み出した
現実からは逃れられないし、
今も未来を生み出し続けている。

…ということにしている。

自分が未来を選んでいるという前提なら、
望み通りの現実を選ぶこともできるはずだから。
そんな期待と欲得を込めて。


望み通りの現実を選ぶ攻略法は
きっとどこかにあるのだろうけれど、
残念ながら私には全くわからない。

なので、
先ずは、自分が生み出した問題を
解決してゆこう。

そもそも現実は単なる事象なので、
認めるしかないものに抗ったところで、
どうにもなりません。

そんな圧巻の現実を問題視したって、
負けるしかないのだけれど、
勝ち目のないまま踏ん張っている。
なぜなら、
負けを認めると都合が悪いから。
価値観を変えなければならなくなるから。

価値観を変えたくないから、
現実には向かっているのです。
思春期ですね。大人の。

とは言え、
50年間、負け続けてきたので、
さすがに疲れました。
価値観を見直してみる頃合です。

生きている限り生み出される現実を肯定し、
現実を問題視する価値観を回収し、
回収する必要がなさそうな選択をして、
安穏な余生を過ごす。

そんな人生にシフトチェンジしよう
と思っていたのだけれど、逆かも。
命が求めているのは、変化、変容だから。

安穏な余生を狙っていたら、
頭の硬い老害になってしまうかも。
進化を拒絶して、過去を生きるのは嫌だな。

でも、負け続けていたら、疲れちゃうよ。

なんてネガティブな弱音を吐いたら、
チャンス到来です。

「負け続けていたら疲れる」
という価値観を回収してみよう。

「結果が伴わないのに、
無駄にポジティブで馬鹿みたい」

そんな意識が、
努力する自分をこき下ろしている気がする。
傍目を気にして、夢中になることを諦めた。
そんな過去があったのかな。

確かに、憧れていた理想の自分なら
もっと合理的に生きられたはずだし、
成功して、社会的な影響力もあり、
実は注目の的だったかもしれない。

憧れなら努力しなくても、
どこまでも、いつまでも高いまま。

確かに、そんな素敵な自分であったなら、
人目を気にしたほうがいいかもしれない。
けれど、今の私は、
誰かに注目されるような人生ではないよ?

誰も見ていないのに、
傍目を気にして、どうするよ?

そもそも、人生とは過程ですよ。
結果は死ぬと決まっているのです。
ゴールは、誰にも平等に与えられます。

行き着く先が皆、同じなのだから、
成果より、人生の質を高めた方がよくない?

成果を求めて、自分を蔑ろにして、
必死に努力して、挙句に報われなかったら、
たまらないよ。

高望みする自分を責めたって、変わらない。
変われないんだよ。わかっていても。

無理しても、補いたい自分がいるんだもの。
身の丈に合った望みなんて、いらないんだよ。
実在しない完璧な自分でなかったら、
生きている意味なんてないんだから。

そのくらい、今の私には価値がない。

そんな無価値観が奥底に眠っているから、
わざわざ不幸になる現実を選んでしまうんだよ。
無意識に。

今の私が、不幸だから、幸せを選べないでいる。

無価値な自分に幸せなんて必要ないでしょう?
幸せでも不幸でも、同じことでしょう?
価値がないんだから、不幸でもいいでしょう?

そんな呪いが、不幸へ導いてゆく。


成果を求めたのは、たぶん、
成功しても、失敗しても、
思い通りになるから。

不幸なままの自分でいられるから。

成功すれば自分の不足感を補えると
信じていたけれど、埋まらないんだ。
現実的な成功がもたらすのは、
今感じている以上の不足感。物足りなさ。
失敗すれば、尚のこと。

自分のことを無価値と思っているから、
不幸になる設定を選択をしている。

不幸だから、幸せを願っているのに、
無価値だから、不幸しか選べない。

不幸だから、幸せという成果を願い、
無価値だから、不幸になっている。

なんか変だ。
不幸だから幸せを願うのは、ナチュラル。
幸せを成果と設定しているのは、思い込み。

問題は、そもそも成果と不幸は関係がないこと。

不幸なのは、
自分を無価値と思っているからであって、
幸福になるための行為とは無関係。

そもそもが無価値だから、
不幸設定がデフォルトなだけ。

なのに、
成果があれば幸せになれると思い込んで、
不幸から抜け出そうとするのは、
幸せになるためじゃないのかも。

不幸せな設定を、無価値観を守るため。

幸せの概念が、大袈裟なことは否めない。

理想の自分と同じように、
理想の幸せを追い求めているから、
あり得ないほど満たされないと、
幸せとは認められないのかも。

やたらハッピーで、天にも昇る心地
というイメージなので、溢れるくらいに
ポジティブな感情だけで心が満たされないと、
幸せとは思えないとか。うん。たぶん、そう。

そんな一生に数回の幸せを待つより、
幸せの概念を、もって手近に変えたらどうだろう?

充足感とか、充実感を幸せにしたら、
葛藤や、失敗や、無駄な努力でさえ、
幸せの一部になる。

私の嫌いなネガティブな感情も、
前向きチームに加えることができる。
いいじゃん。

ただ、不幸の根本原因は、
事象でしかない現実を
不幸と設定しているから。

幸せは、目を逸らすための罠。
設定に気づかれないように撒かれた餌。

本当に幸せになられたら、困るのよ。
不幸でいてくれないと、迷惑なの。

自分で自分の不幸を願っている
と気づかれたら、どうするの?

せっかく無価値だと洗脳してきたのに、
努力しなくても生きてこれたし、
成功しなくても仕方がないと納得できたのに、
本当はやればできたかもしれないなんて…
今更、気づいたら、後悔しない?

どうかな。
後悔というより、納得した。

少なくとも、楽して生きてゆきたい
という願いは叶っているのよね、毎度。
不幸と引き換えに。

さて、どうしよう?



自分自身への無価値設定を変えない限り、
不幸でなくても、不幸だと思い続けるだろう。
この先、ずっと。

高望みの成果ではなく、過程による充足感を
選べるようになっても、不幸だろうな。

だって、
無価値なのに幸せなんておかしいもの。
幸せになる価値があるなら、幸せ。
幸せになる価値がないんだから、
主観としては不幸せが妥当なんじゃないの?

不幸でいるなら、ご褒美もあるしね。

不幸なのは、心が不幸だから。

不幸な現実を変えようとしても、
不幸はつきまとう。
心は不幸なままだから。

現実を変えたいなら、
実現可能な目標設定をし、
今の感じ方を変えること。

幸せになりたかったら、
幸せのハードルを下げて、
今の私を幸せにすること。

幸せになりたいなら、
不幸な今でも、
幸せを感じられるようになる。

お金持ちになりたいなら、
貧しくても、心豊かでいる。

安穏に過ごしたいなら、
不安に怯えながらも、
のほほんとした心持ちでいる。

なんて、無理ですよ。

なので、なぜ、
不幸だと感じるのか?
貧しいと感じるのか?
不安に怯えてしまうのか?

不幸と感じていた理由が、
無価値観だったように、
貧しさや、不安にも、
それを生み出す理由がある。
そうであって欲しい自分がいる。

不幸でないと、貧しくないと、
不安に怯えてもらわないと、
辻褄の合わない自分がどこかにいる。

たぶん、私の迎えを待っている。
私に認められるのを。

私の望みを叶えたのに、
なんで悪者にされてるんだと、
プンプンと怒りながら、
それでも律儀に待っている。

価値観を書き換えたって、ダメなんだ。
手放すのは表層の価値観ではなく、
不幸であるメリット。
それに対する執着。

なりたくないのに不幸を選んだのは、
裏に隠されたメリットを死守するため。

それが、私の心からの願いだったから。

だから、認めて欲しいんだ。

がんばってきたこと。
私のために戦っていたこと。
独りでも守り切ったこと。

彼女は悪者ではなく、
私の願いを必死で叶えてきただけ。

間違っていたのは、私。
誤解して、見捨てて、傷つけた。

母じゃなかった。
私が見捨てた。

ごめんね。ありがとう。

あなたのお陰で、
私は望み通りの人生を生きていたんだわ。

理想とは程遠いけれど、
主観的な不幸と引き換えに、
楽ちんで、恵まれた人生だったよ。

なるほど。これは手放したくないな。
それでも、気づいた以上は、
変わってゆくんだろうけれど。

価値観を変えることが難しいのは、
今のままでいるメリットが多すぎるんだろうな。

気付きたくないから、難しいんだね。わ

 fumori 


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