善良であることと、相手が幸せであることと、私が幸せであることは、関係ない。

善人が幸せになるとは限らないし、
悪人が不幸せになるとも限らない。
世の中とは、理不尽なもの。

その設定が間違いだったのかもしれない。

自分を幸せにしよう。
幸せに生きるために、善いことをしよう。

そう決めたから、
暴れ狂う悪人の自分を律して、
善人らしく振る舞った。

悪人の私が抵抗したところで、
根はいい奴なのだよ。
納得できなくても、最後にはちゃんとやるもの。

なんて思っていたけれど、
そもそも善人の私なんていなかった気がしてきた。

ただの私が、頑張って善いことをしていただけ。
それが善いことで、幸せになれると信じて。

善良であることは、悪いことではない。

ただ、それを装う事によって、不本意が生じ、
本意ではないという偽りが、不快感を生んだ。

それは、本意であることが、私の幸せだから。

自分に誠実であること。
精神的な幸福に限れば、それだけでいいのかもしれない。


幸せは、デフォルト。
不幸せは、イレギュラーなイベント。

望まない現実が私を不安にさせているのではなく、
過去の不安が、今に不安を見出しているだけ。

不安なのは、私ではなく、過去と自我。
今と私でいる限り、幸せが当たり前。

なんて前提が世界の真実かはわからないけれど、
一旦、その前提で、今の不安を捉え直してみませう。

不安になると、つい、
「自分の言い方が悪かったのかな?」
とか考えて、益々、不安を募らせてしまう。

けれど、問題は、私や誰かの言動ではない。

幸せなはずの私が、なぜ不安になっているのか?

どこかに偽りがあるということ。

自分の本意を裏切って、
善良な自分でいようとしているのかも。

相手を不快にさせたかな?
嫌われたらどうしよう?
私が不安に思うのは、そんな想いに苛まれる時。

つまり、相手の幸せを願って、
不安になっているわけです。

いかにも善良そうな発想です。
そこに偽りがあるとしたら?

相手が幸せでないと、私は不安。
という発想の裏にある私のメリットは?

善良な私でいられる安心感、でしょうか。

なら、相手を幸せに出来ない自分への不安とは、
善良な私でいられなくなる不安なのでは?

つまり、
「あなたが幸せでいてくれないと、
私が悪人になっちゃうから、嫌なんですけどぉ?」
と言いたかったのでしょうか。

うわっ。なんか、嫌だな。
小っさいなぁ、私の本意。

善良であることと、
相手が幸せであることと、
私が幸せであることは、関係ないのに。

ん?
偽りは、それかな?

私は、自分の中に偽りがなければ、
善人でなくても幸せで、
誰かに分けることのできる幸せは、
私の幸せであって、
それが相手を幸せにするとは限らない。

喜んでもらえるか、お節介と思うかは、相手次第だから。
相手の幸せは、相手のもの。

なら、相手を幸せにする事なんて、不可能じゃない?

私の幸せが相手のニーズを満たせないからと、
私以上の幸せを与えようと頑張れば、
今度は私を不幸にすることにならないのかな?

与える喜びの前には、
自分の不幸せなんて瑣末なものなのかな?

私が与えられた喜びは、
相手の幸せのおこぼれだったのかな?

本人の幸せ以上ではなかったかな?

私は、周囲の人々のお膳立てに
乗っかっていただけだったのかな?

だとしたら、
私はまだ、愛を知らないのがしれない。

fumori


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