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愛されない自分が嫌で、自分を愛せなくなったみたい。

自分が何を感じているのか
よくわからない。

腹が立ったり、感動するとか、
心が大きく動く時はわかるけれど、
嫌いじゃないなら好きなのかも?
という漠然とした感じ。

これが好き。
これがしたい。
こっちがいい。

そういうシンプルな本音が
わからなくなってしまった。

その原因は、思考の縛りなのだけれど、
本音がわからなくなるほどに
思考に頼るしかなくなる逃げ場のなさよ。

そもそも思い込みが間違っているのだから、
思考に頼れば、よくなりようがないのです。

なので、本音に気づくトレーニングをしております。


本音がわからなくなったのは、
本音がうるさかったから。

本音に従っていたら、
あるべき自分にはなれないから。

愛されたかった私は、
愛される私になりたかったので、
満載のオタク気質とかいらなかったんだよね。

自分が好きなものではなく、
愛されそうな女の子がしてそうな趣味とか、
愛されなくても自信が持てそうな
見栄えのいい仕事とか、
そんな基準で人生を選択してきた。

やりたいことなんてなくなるよね。

やりたくないことしか、
してこなかったんだもの。

つまり、
やりたいことをしていれば、
本音の声も聞こえるようになる…

訳ですが、
そもそも本音が聞こえないのだから、
何をやったらよいのやら、なのです。


自分以外になろうとしたのは、
今の自分では愛されなかったから。

愛されない自分が嫌だから、
自分を愛せなくなってしまった。

なら、自分を愛してみればいい。

自愛なんて、ものすごく高い精神性が
必要な気がしていたけれど、
全然、崇高なことじゃなかった。

生理的な欲求を満たしてみる。
瑣末な不快感を解消する。

寒かったら、暖房を入れる。
ヒートテック的な肌着に変える。

眠かったら、何時だろうと寝る。

食べ過ぎない。
食べたくなったら、食べたいものを食べる。
美味しいものを食べる。

お腹を締め付ける服を着ない。
肌触りのいいものを選ぶ。

その程度。

なんだけどね、
その程度のことができていなかった。

自分に対して、
酷い扱いをしているとも思わなかった。

むしろ、面倒くさいのに、
お風呂に入ったり、スキンケアしたり、
ご飯作ったり、食べたり、片したり、
よくやっていると思っていた。

愛せない自分を大切に扱うことは、
たぶん、難しい。

雑に扱っているつもりはなくても、
それが妥当だと疑わないから。

本当に些細なことだけれど、
自分を喜ばせることと、
我慢させることの比率が、狂っていた。

我慢の反動が、食欲やお酒や
コンビニ散財だったのかな。

我慢することは、当たり前だし、
良いことだと思い込んで生きてきた。

けれど、私のしてきたことは、
自分への虐待だったかも。

我慢して、頑張って、
自分ではない素敵な自分になって、
思うままに愛されたかった。

おつかれ、自分。
ごめんね、自分。

愛されるかどうかは、相手の自由なので、
愛される夢が叶うとは言ってあげられないけれど、
愛されたかった私の居場所を作るよ。

愛されない私でもいいってことにした。

誰からも愛されなかったとしても、
私は愛しています。命ある限り。

私が愛しているので、
愛されたかった私は、
愛され続けることになるでしょう?

愛されたかった私を満たすのは、
私でもよかったんですよね。


愛されない恐怖に怯えてしまうのは、
独りだと寂しいのは、
理解できない人に対して腹が立つのは、
愛されたかった私を刺激するから。

愛されたかった自分を思い出したくないから、
愛される自分になりたかった。

愛されたかった私と向き合えなかったのは、
そんな理由。

けれど、問いたい。

愛されなかった私だけが、悪いの?

子供が未熟なのは当たり前じゃない。
いけないこともするよ。
それは、もちろん、私が悪い。

けれど、
親の言いなりにならないから、
子供が悪いなんて、おかしな話なんだよね。

私はダメなこともしたけれど、
それは、未熟な子供だったからでさ、
私がダメだった訳ではないんだよね。

なので、愛されなかった私は
責められる必要はなかった私なのです。

悪くないのに、怒られた。
理不尽に晒されたんです。

愛されていなかった訳ではないんです。

人間社会は、大人も未熟なのです。
未熟だから、人間なのです。

親も子供もどちらも
人としては未熟なのです。

なので、人としての未熟さを
マルッと容認することにした。

今の自分が感じる全てを、
リアルな反応の全てを、容認する。

倫理的によくないとか、
大人としてどうとか、
人としてあり得ないとか、
ジャッジをしないようにしてきたけれど、
もうジャッジしていいや。

本音に楯突いてもいい。
何を思っても、感じても、考えてもいい。

自分の内側を、完全無礼講とす。

そのくらい自由でいい。
自分への縛りを解く。

感覚も、感情も、思考も、
全部、そのまんまでいい。

今のままの私の感性でいい。


自分の内側が無重力になって、
この言葉が心に響くようになった。

「私は、なにがしたいの?」

自問しても、答えてくれはしない。
ただ、心がじんわりしてくる。
伝わっている気がする。

自分を愛する行動をする。
ありのままの今の自分を容認する。

これを続けていったら、
いつか心の声が聞こえるように
なるかもしれない。

そんな期待感が、この世界を好きにさせてくれる。

今を認め、今ではない未来へ行こう。

fumori

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