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引き寄せしたくても、そもそもワクワク感って奴がわかりませんでした。

無意識が現実を創っている。

それが真実なら、
無意識を設定し直せば、
望む未来を生きられるのでは?

そんなこんなで、
生きたい世界観を書き出してたりするのだけれど、
どうにもわかりにくい。

言葉自体はシンプルなのだけれど、
希望なのか、前提なのか、真理なのか、
分類が出来ていないからだと思う。

なので、
無意識を分類してみることにした。

先ずは、世界観の設定。

思い込みとか、当たり前の前提として、
疑いなく採用している価値観。

なのだけれど、
変えられないものもあるよね。

家族とか、日本人であることとか、
今ある状況とか、自分とか。

引き寄せ的な発想が出来る人は、
この根底を塗り替えられるのだと思う。
現状との矛盾に引き摺られずに。

私は、願うことが現状を
否定することになるとダメらしい。

なので、
世界観の上位には、
変えられない真実みたいなものが
鎮座することになるのかな。
今のところ。

その下が、前提。

さて、どんな世界で私は生きたいのだろう?

思い通りになる世界がよいな。

現実を否定せず、
感情に呑まれず、
嫌なことも前向きに捉えられたら、
楽だろうな。

本音が自由でいられること。

未来や過去ではなく、
今ある可能性に目を向ける。

たぶん、私は、
自分の見たい現実を見ているし、
それ以外から目を背けているし、
可能な限り最善の生きたい現実を
生きているのだと思う。

もちろん、そうとは思えないけれど、
ネガティブな現実を生きている理由が、
自分の目線にあるのなら、
自分で何とか出来るはず。

その可能性を信じることにした。
現実的な努力したって、
今あるネガティブからは逃れられない。

だって、
状況的には不幸ではないのだから。

職場にトラブルはあっても、
トラブルのない人間関係もある。
ほんの少しだけれど。

なら、職場を離れたら、
考えなければ済む話なんだよね。

今は出来てはいないけれど、
なんとかなりそうだと思えるだけで十分。

なんであんなことを言うのか?
相手のことを考えるのではなく、
なんであんなことを言われたのか?
むしろ、言わせたのか?

そのくらい自分の世界の主導権を握る。

相手が言いたくて言うことなら、
まともに聞かないという選択肢もある。

大凡は、そうやって生きている。
なら、反応してしまうのは、私の問題。

相手に腹を立てるのも、嫌いになるのも自由。
けれど、
今ある問題は、相手ではなく、私の問題。

そのくらい強烈な世界観を持ってみる。
他者の意図や感情に左右されない。
攻撃されても、素通りさせる。

跳ね返そうとすれば、
こっちもダメージ喰らう可能性があるから。

大切な世界だもの。
荒らす気満々な相手に、
見せなくていいや。

知ってもらわなくてもいいんだ。
そっか。
私はまだ、認められたいんだね。

自分の世界を自慢したくて、
たまらないお子ちゃまなんだ。

だって、幸せだからね。
あ。ウザいのか、私。

なんで私の幸せを
人に認めてもらいたいんだろう。

私が幸せを認められないから?
だろうね。ごめん。

誰かに「あなたは幸せだよ」って
言ってもらいたいから、
私は不幸なフリをしていたとしたら、
本当にご迷惑をお掛けしました。

本当に、現実って答えなんだな。
望んだ形ではないけれど、
ちゃんと答えになっている。

というように、
現実を信頼することで、
私自身が整ってゆく。
そう信じることにした。

それが、今の私の設定。
私の世界観です。

さて、無意識の設定は完了です。

現実を否定しない。
現実を信頼する。
現実を優先する。

精神世界の話なのに、
現実を優先するなんて不思議なんだけどね。

現実と向き合わない限り、
主観から離れられないので、
感情や思考に囚われないためには、
現実を噛み合わせるのがベストなのです。
たぶん。

さて、顕在意識の設定です。

ここでは、ベクトル。目線。

何を見たいか?
何を世界に映すのか?

感情が揺れるのは、
私が偏っているから。

ネガティブな現実があるから、
同種の感情を抱くのではなく、
偏りを刺激されて不快に感じる
私がいるから、ネガティブになるだけ。

あくまでも、現実はニュートラル。

なら、望みが叶うように偏ることができたら、
見たい現実が勝手にピックアップされるはず。

なんて都合のいい価値観を採用する予定です。

ずっとわがままな自我をなんとかしよう
と思ってきた。

けれど、もし仮に、相対的な価値観を
ジャッジせず、赦し、認め、内包する
愛の視点で生きることが出来るとする。

それって、どうよ?

そんな人生、望んでいないのよ。
自我も、私も。

99%の安穏だとしても、
1%の刺激は欲しいのだ。

なので、好き嫌いで生きてゆく。

今までは、99%の幸せに目を向けず、
1%の不幸せをカウントしてきた。

だから、
体感としては不幸だったし、
現実はタイトだった。

現実への恐怖から、
人の顔色を伺って来た。
的外れだったけどね。

先ずは、自分に集中する。
出会う現実を、好き嫌いでジャッジする。
もちろん、心の中で。

嫌な現実は、私の心にある偏り。
それを解消するチャンス。

現実の答えを受け取る。
自分の世界を押し付けない。

その覚悟が決まったなら、
堂々と自己中心的になっていいと思う。

世界の中心に立つ。
だって、私の世界だもの。

誰に何を言われたって、
異世界が口出しするなって話。

耳を貸すかどうかは、
私が決めればいい。

誰もが私のためを思って、
言いにくいことを敢えて言ってくれている。
なんてことは、ない!!

嫌だと感じる殆どは、
八つ当たりや悪意だ。

それをスルーできない自分がいるなら、
私も意地悪だってこと。

悪口だって、愚痴だって、
どうでもよければ聞き流せるのかも。

他人のことに、心を裂かない。

現実は、ニュートラル。
私が勝手に、意味づけをしているだけ。

なので、私は自分のために生きます。
幸せにする。幸せを諦めない。
ためになること、価値あることを選ぶ。

そう決めました。

なので、手放します。自分以外を。
そして、自分自身を。

拘りを捨てて、身軽になる。

自分の中の偏りが減ったら、
視野も広がる。

自分以外の世界を否定しなくて済むし、
自分の世界なら、自力で変えられるから。

そうなったら、相当に自由かも。
現実にわずわらされることが激減しそう。

現実に感謝できるかも?

今の自分の有り様を知ったら、
支えられて生きていることに気づくよね。
これまで見過ごして来た当たり前の中に。

自分も何かしようって思えるかな?

自己犠牲ではなく、見返りを期待せず、
気軽に、手軽にできる小さな親切。

そんなものを見つけられたら、幸せかも。

うん。なんかさ、
この時点でもう幸せかもしれない。

自分ができることをすることって、
幸せなのかもね。

安いし、チョロいな、私。

けど、手軽な沢山の幸福で
満たされるのも、悪くない。

重すぎなくて、
むしろ、いいかも。

現実への対処法を身につけ、
自分の世界の手綱を握る。

そうしたら、見たい世界を
見れるようになってるんじゃない?
ナチュラルに。

寧ろ、明るい方にしか、目が向かないかも。

ネガティブをチャンスとか
思っちゃえるくらいだもの。
うん。ありえないくらい前向きだ。

そんな私が見たい世界って、なんだろうね?

現実に感謝して、
負担なくできることをして、
手軽で安い幸せで溢れてる私。

現実や自分との折り合いもついて、
周囲とも上手い距離を取れるだろうし、
摩擦レスに近づいている?

些末な現実に煩わされることがなくなって、
何かあっても、何とかできる私。

仮にそんな未来を生きていたら、
何してるんだろう?

なんか、考えているだけで、楽しそう。

これが、ワクワクなのかな?

fumori

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