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与えられたいものを与えても、誰かを幸せにすることはできない。

生きることが辛かったのは、
現実をコントロールしようとしていたから。

現実は、答え。
過去の選択の結果。 
起きてしまった以上、
受け入れるしかないもの。

現実に抗わない。否定しない。
起こる全てを肯定する。

起こる全てがパーフェクト。
現実は、最適解。
そのポジションに立つ。


この世界は、一つの印象と同時に、
もう一つの対極の概念が発生する。

ネガティブな感情には、
必ずポジティブな側面がある。

感情はサイン。
ネガティブな感情は、カルマ回収の合図。
感情に囚われている過去を救い出すチャンス。

思い出すと苦しいそれは、
今でも苛まれるほど感情はリアルだ。
けれど、思い出であって、今ではない。

今、苦しむためのものではない。
間違った解釈を赦し、手放すサイン。

なぜ、苦しんでいたのか?
なにを守るためだったのか?

その答えを出すタイミング。
解答権が来たチャンス。

苦しみの裏に隠されたそれに
気づくことができるかな?

ネガティブな感情が私に求めているのは、
自由、解放、真理みたいなもの。

私を不幸にするためのものではなく、
私を導くためのもの。

間違って解釈した過去に気づいて。
解放した方がいいんじゃない?

そう言ってくれている。
私の幸福を願っている。

本当かどうかなんて、わからない。
精神世界の話だもの。

なので、そう信じてみる。
今ある現実を肯定し、
ネガティブにジャッジしたがる原因と向き合い、
隠されたポジティブな希望を見出す。

言うのは簡単なんだけどね。
理屈だけで、現実が進むなら、
とっくに幸せになってるもんね。

そう生きたいと願っても、
現実はままならないことだらけで、
事あるごとに感情に呑まれてしまう。

ポジティブな希望のことなんて
すっかり忘れて、文句を言う。
それが、私の現実。

なので、
信念を体現するのは、難しい。
そう思っていた。

けれど、本当だろうか?

簡単とは思わない。
けれど、私が思うほど難しいのだろうか?
もしかしたら、そんなら思い込みのせいで、
難しくなってたりしないかな?

思った通りの現実を生きるためには、
苦労をしたり、頑張ったり、
理想との違いを埋めなければならない。

無意識に、そんな選択をしていたから、
思い通りにならない、とか?

今ある現実を肯定できないのも、
苦労の末の信念の実現を願っている、とか?

そもそもの設定が、ハードだったりしない?

努力とか、苦労とか、
何かを成すためには、当たり前だと思っていた。

けれど、世界は私が思う通りにある。

なら、楽に生きてゆきたい私仕様の
イージーモードでいいのでは?


私の設定がハードなのは、
与えられるままを信じて生きてきたから。

時代的な圧力と家族からの抑圧。

時代は求めた通りに変わっている。
私の価値観を変えなくても、
時代の方が求める方へと変わってくれた。

問題は、家族的な価値観。
抗えないのは、
幼い頃から支配されてきたから。

そう思ってきたけれど、
違ったかも。

たぶん、信じているから。
家族への信頼を裏切れないから
かもしれない。


私の愛とは違うけれど、
彼らの生き方や価値観を、
否定したくはない。

それが、私の愛の表現だから、
受け入れてきたのかもしれない。

支配されていることで、
相手の価値観を、生き方を尊重できる。
そんな私なりの愛だったのかもしれない。

そんな歪な愛も、
そろそろ終わりにしようと思う。

愛する人の不幸を、
私が引き受けることはない。

むしろ、引き受ける事で、
互いに不幸になってゆくから。

自分を幸せにすること。
誰かの幸せを妨げないこと。

先ずは、そこから。

私がして欲しかったことを、
相手にする事は、愛ではないのかも。

相手の求める愛とは、違うから。
やればやるほど迷惑がられるから、
疲れ果ててしまう。

だって、本当に満たされたいのは、
私自身なのだから。

与えられたいものを人に与えても、
相手も自分も満たされることはない。

与えられなかったもの、
欲しかった感情を与えるのは、
自分自身に対して。

与えられなかった感情を欲しいと思う。
そこが満たされることが、私の幸せ。

そして、私の幸せは、私だけのもので、
他の誰かには、別の幸せがあるのだろう。

だから、すれ違ってしまうんじゃないかな。

愛を与えて、喜んでもらうこと。
それは、
間違いなく自分の幸せなのだけれど、
与えてもスルーされて、
むしろ迷惑がられたり、
依存されたり、してみたり。

なら、私が親切ではなく、
お節介と感じるそれも、
その人の愛なのかも。

他者の愛の交流を阻んで、
私の愛だけを受け入れるか、
与えるかに固執してきて、
勝手に苦しんできたのかな。

自分以外の愛を信じること。
そのために、
愛されたかった私が望む愛を
私自身が与えること。

私が自分を幸福にする。

そのポジションに立とう。

自分を幸福にする。
現実を肯定する。
希望を選ぶ。

その信念を実現する。
なるだけ簡単に。イージーモードで。

真っ先に手放さなければならないのは、
苦労の果ての幸福、夢の実現という価値観。

努力することを、
我慢することと勘違いしている価値観。

頑張ったって、叶わない事はあるし、
頑張らなくたって、叶うものは叶う。

叶うことは、未来に必要なこと。
叶わないことは、問い合わせ。

なにかが違うから、停滞する。
本当に叶えていいか?
目標を変えることで、
もっと望む未来に近い可能性があるとか。

現実を否定することなく、
全てがサインだと思えたら最強じゃないかな。

まぁ、まだ理屈の上なんだけれど、
現実に左右されにくくなるなら、
その方が幸せとは思う。

そんな未来を描いてみよう。

もっと自由に、未来を願ってみる。

私が抱く信念が、
愛に基づいているのなら、
願いは叶う。簡単に。

ズレているなら、
問い合わせのサインが来る。

私には、どちらかの現実しかない。
どちらも私を幸福に導くためのサイン。

個人的にはジャッジしてしまうのは、当然。
人間だもの。

思い悩んで、悲しんで、苦しむ感情は現実。
それを、肯定しててから、見直してみる。
愛の視点に立ってみる。

人生を、シンプルに捉えてみる。

叶う夢は、簡単に叶う。
叶わない夢には、理由がある。

人生を重く捉えすぎていた。
命は重く、生きることには価値がある。

価値があるのは、命が儚いから。
脆いものだから執着が生まれて、重くなる。

命は、むしろ、軽いもの。

どれだけ大切に守っても、
必ず失われるもの。

執着しても、いずれは手放すもの。

死は定められているからこそ、
限りある命を大切に、
執着せず、軽やかに生きてゆく。

そのくらい深く考えず、
シンプルに明るく生きてゆきたいものです。

fumori


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