自分の領域と、天の領分。

死にたくなんてない。

生きることは面倒だとは思っているけれど
死にたいなんてこれっぽっちも思っていない。
だって、死ぬのは怖いもの。

なのに、唐突に
「死にたい」という声がする。

理由もわからないまま、
死にたいという声が聞こえる状況が続いている。

最初の頃は、怖かった。焦りもした。
私の声とは思わなかった。

自分の中にある無意識の声かもしれない
と思い直してからも、
声を聞くたびにドキッとした。

宥めたり、すかしたり、
死にたいと言う声のご機嫌を取っていた。

理由もなく死にたがるその声が、
その意思が、それを聞くことのできる自分が、
気持ち悪かった。

内心の自由を誓ってからは、
少しづつ、放置できるようになってきた。

私の中にいてはいけない私なんていない。

なのに、
なんなのだろう?
なぜだろう?

未だに、引きずられて考えてしまうし、
距離を取り直しても、嫌な気分は引きずったりもする。

それは、理由を求めていたからかもしれない。

そもそもの問題は、死にたいかどうか、ではないから。
生きる目的を探しても、見つかったとしても、
多分、解消しない。

生き死にを自力でなんとかできると考えていること
なのではないだろうか?

健康的な生活をすれば、
長生きできるかもしれないし、
自堕落な生活のせいで
寿命を縮めるかもしれない。

けれど、
健康的な生活をしていても
事故に巻き込まれるかもしれないし、
不健康とされる生活習慣がありながら、
元気に長生きしている人もいる。

生死は、確約されない。

健康的な生活によって
寿命は伸びるかもしれないけれど
死ぬ時期も死に方も選べやしない。

死は、与えられるものであって
私個人が選ぶものではない。

想いが実現するというのなら、
遠からず死ぬことになるというより、
とっくの昔に死んでいるはず。

なので、勝手な憶測なのだけれど、
生死に関する願いは、届かない気がしている。

だって、私の領域にない願いだから。
人の領域を超えるから。

生死は天の采配。
個人的な原因の外側にある。

そう言うことにしておけば
死にたいも生きたいも
私が望むことではなくなる。

望んだところで、どうにもならないものになる。

もちろん、
本能は生きることを望んでいるだろうし、
私としても、怖いから死にたくない。
けれど、死にたいと言う声がする。
理由は不明。

私の潜在意識とは思うけれど、確証はない。
幻聴かもしれないし、病気かもしれないし、
霊感が目覚めたのかもしれない。
そんな領域の話になったら、
尚のこと、真っ当な理由なんてなくなってしまう。

あるのは、
声を認識していること。
その声に対する反応。

それぞれの立場からの仮説や願いはあるけれど、
正解はなく、望んだところで叶うものではない。

誰かのための願いは、別かもしれないけれど。

応援したり、元気に鳴るよう願ったり、
幸せであることを望んだり、
誰かのための祈りは、届くかも。

自分の命に関する想いは届かない。
届いたところで、どうにもならない。

それは、私の範疇にないから。
それは、天の采配。天の領分。

いつまで生きるか、いつ死ぬか。

祈っても、願っても、叶う保証がないのなら、
天に任せてしまえばいい。

そうしたら、死にたいと言う声が聞こえても
反応せずにいられるのかもしれない。

私がどう思うかではなく、
天が私を生かすか、殺すか?

私にとって、この命はかけがえのないものだけれど
天からしたら、地球のパーツ。駒のひとつ。

天が必要なうちは生かされ、
そうでなくなったら、死ぬ。

私の命は、それでいいのかな?

できることなら、
やりたいことをするために
延命を祈る人生であって欲しいと願っている。

未練は残したくないけれど、
命を惜しむくらい人生に没頭してみたい。

fumori

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