思っても、できないこと。

この人と喋ってみたい!
と思ったのに、
話しかける勇気が出せずに終わる。

やりたい!
って前のめりに思ったのに、
考えた挙句に諦める。

やりたい事をやって来たつもりでいた。
私には、行動力があると思っていた。

けれど、
やりたいと思ってやった事と、やらなかった事。
振り返れば、圧倒的にやらなかった事の方が多い。

なので、
やったつもりでいたけれど、
やらなかった事の方が多かったわけだ。

そりゃ、やりたくない人生になるよね。

やって、無意味だったと後悔するより、
やっても無意味だということにして、止めたんだもの。

やらないと決めたのではなく、諦めたんだもの。


現実的に考えれば…
社会的に見たら…
常識では…
そんなの当たり前…
周囲の人がなんで言うか…

あり得ない。
という謎のルールに従って生きて来た。
たぶん、今も。

そんなルールがある事さえ、気づかなかった。
無自覚なルールは、心の中に網を張り巡らせている。
引っ掛かったら、発動する。

自分を律するのではなく、罰するようになる。
これは、誰得ルール?

少なくとも、私のためではない。
私を不幸にするものだから。

ただ、私は不幸だけれど、
現実には、波風が立ちにくい。

つまり、生き延びやすくはなる。

幸福のためではなく、
生き延びることが目的なら、得策。

なら、結局、私のためのルール?


ルールを破れば、叩かれる。
相手の世界観を傷つけるから。

世界はルールで出来ている。
それに従う事で、安心していられる。

ルールを守ることによって、
自分の居場所を作っている。

だから、脅かされたくない。
ルールを破るなんて、許されない。
私だってそうだ。

私が採用しているルールを
拒絶されたり、無視されたり、馬鹿にされたら、
我を忘れて怒り狂うだろう。

怒りは、恐怖。

居場所を奪われるという途轍もない恐れが、
自分の世界を守りたいという野生を発現させる。

そのくらい不安定な世界を生きている。

自分という感性を信じられないから、
ルールで縛って、世界を安定させようとする。

そんなものがなくても、
自分そのものを信じられたら、
ルールなんて必要ないのだけれど、
信じるに足る自分さえ、
ルールで振り分けているから、
いつまで経っても信じられる自分と出会えない。

善悪なり、損得なり、快不快なりで、
自分を測っている限り、
自分を信じられるはずもない。

自分なんて、結果でしかない。

なにを思って、
なにを意図したとしても、
やったことが自分。

よかれと思った親切も、
相手がお節介だと感じたら、
お節介な自分を受け入れるしかない。
その人に限っては、だけれど。

お節介じゃなく親切な私、
として扱ってもらおうと
相手の世界に干渉しようとするから、
ルールが発動する。

嫌われたらどうしよう。
嫌われたくない。
嫌われたら、居場所がなくなる。

そんな自分にとって都合のいい現実のために
行動を選択するから、空回りして、がっかりしている。

相手は私のルールに従う必要はないし、
私も相手のルールと違っていい。

世の中の常識というルールは、
みんなのルールの平均値で、
時代によって更新され続けるもの。

絶対ではなく、毎年改定される参考書。

教科書だけでは読み解けない所を、
補ってくれるもの。

参考であって、真理ではない。
真理は解説出来ないものだから。

私の教科書は、私にしか読み解けない。

たぶん、そんなようなものが、
一人一人に与えられていて、
自分の教科書にふれられた人は、
ルールから解放される。

自分のルールがなくなればなくなるほど、
相手のルールを否定せずにいられるようになる、とか?

自由は対等だから。

自分が自由になれただけ、
相手の自由を尊重できるから。

参考書は、理解するもの。
教科書は、気づくもの。

ルールではなく、感性を信じられたら、
そこが居場所になるのかもしれない。

私が求めているのは、私が存在できる場。

人に承認してもらって居場所を作るのではなく、
私が存在する場に、私自身が安心できる状態。

そうしたら、
相手のルールに左右されることもなくなり、
相手の世界に干渉しようとする意図もなくなるのかな?

ま、そのくらい圧倒的に自分を信じられないから、
与えられたルールを作り変えて対応しているのだけれど。

やりたい事をやれる自分は、
意思とか精神とか関係ないのかもしれない。

突飛な思いつきを
疑うか、信じるか?

その思いつきが、思いつき以上の未来に
繋がっていると確信しているか?

自分という存在が発する全てに安心していられるか?

なんだ。

私は、自分であることに、安心していたいだけなんだな。

fumori


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