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私の世界を押し付けなければ、相手の世界を受け入れる必要はないのかも。


思い通りになる人生が、当たり前。

そんな前提で未来を眺めることができたなら、
どんな人生が広がっているのだろうか?

人の良い所に目を向ける。
そうしようと思ってきた。

視界を長所に限定すれば、
確かに、そこには目が向く。

けれど、
相手の長所を見ていたら、
自分の短所ばかりが
目立つようになってしまった。

自分はなんてダメで至らないのか。

もっと下層の無意識では、
妬んだり、無力感に苛まれていたのかも。

それを感じたくなくて、
上から目線になったり、
自分を守ることに必死だった。

そう思うと、辻褄が合う。

自分の中に認められない自分がいるうちは、
ポジティブに受け取ろうと思えば思うほど、
ネガティブな闇に侵されていく。深層で。

なら、比較の価値観があるうちは、
他者の長所を見ることは、
むしろ危険なのではないかしら?

それとも、
妬み嫉みに苦しむダークな自分を知ることが、
必要だったりするのかな?

だとしたら、人生は苦しみでしかないけれど…

そう思っていた方が、ダメージは少ないのかな。

人生は苦しみ。なんて価値観だけじゃ、
堕ちて這い上がれなくなりそうだけれど、
苦しい時期に、人生楽勝みたいに
ポジティブを捉えようとするのは
危険なのかもしれない。

ネガティブな価値観が根底にあると、
ポジティブな思想が反転して、現実になる。

なら、自分の中に、無意識の中に、
比較の価値観や、無力感や、無価値観や、
自己不信や、自己否定がなくなったなら?

もしかしたら、
ポジティブな夢や希望を抱いても
逆に現実に苦しむことはなくなるのかも。

そうだといいな。


ポジティブなことだけ考えて、
思ったことは全て実現する。

それが当たり前の前提で、
出来なかったことは、
自分の意識の問題で、
誰のせいにもせず、
出来ない自分をも責めず、
自分の幸せを考えて生きられたら、
それだけで人生楽しそうだな。

他者の幸せは、その次のステージ。
先ずは、自分を幸せにする。

他者を幸せにすることで、
自分を補わなくてもよくなったら、
等身大の自分でも、
誰かを幸せにできるかもしれない。

無意識の自分には、
今だって出来ているのだと思うんだけれど、
どうなんだろう。

意図せずに、素の私がしていることは、
誰かのためになっていたりするのかも。

思い上がりかもしれないけれど、
迷惑をかけることと同じくらいは、
為になることをしているはずだから。

相対的な世界は、完璧なバランスだもの。

人のことより、今は自分に集中しよう。
自分のためになることをしよう。
自分にとって価値あるものを選ぼう。

私の世界を押し付けない限り、
相手の世界を受け入れる必要もない。

異世界を尊重するために、距離を取ること。

私を理解してもらいたいという気持ちは、
他者には不必要な感情だから。

たぶん、私の見てい世界は、
私だけのものなのだ。

なら、愛することしか出来ないのだろう。

どれほど醜い世界でも、
同じくらいの美しさがあるのなら、
どちらも私の世界であり、
その源は、愛だから。

相対的な世界から離れてみたら、
愛でしかなくなるのかもしれない。

醜さも、ネガティブも、
私が認めたくないものも、愛。

なら、愛することしか出来ないかも。

美しさのベクトルが違うだけで、
醜いと思っているのは私だけで、
あるものを愛の表現としておいたら、
いいのかな?

それでも、美しいものだけ
見ていたいと願ってしまうのだけれど。

fumori

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