本当の自分を、私は知らない。

ずっと不思議だった事がある。

命が存在の肯定であるなら、
なぜ、私は生きていられたんだろう?

存在を否定し続けることは、
命そのものを否認すること。

なので、自己否定は、
命を捨ててるようなものなのに、
結構長いこと生きながらえている。

その謎が解けた気がする。

自分の命を否定する代わりに、
誰かの命を肯定し続けていたから。
憧れや、羨ましさや、妬ましさを使って。

誰かの命を肯定することで、
否定した分を相殺させていた、とか?

なんにせよ、生きようとする本能が
強いのだろう。猛烈に。
どれほど苦しくても、自分可愛さが勝る。
憎まれっ子が、世に憚る訳ですね。

誰かを妬んだり、羨んだりする気持ちを
浅ましいと思っていた。

なんとか切り捨てようとして来たけれど、
理想通りでない自分を肯定し続ける胆力
みたいなものが足りなかったのかも。

赦せない自分を赦し、
最低な自分を肯定し続けるためには、
私を赦さず、最低だと断じている
強烈な自我と対立することになる。

その覚悟がなかったから、
負けるしかなかったから、
勝者である誰かを羨んでいたのかな。

負けたくなかったのかな?
どうなんだろう。
誰も勝ったりしていないのに。
納得したかったのは、誰なんだろう。

本当の自分を、私は知らない。

これこらの人生は、
これまでの自分ではない人生。



なんか、全然、楽しみじゃない。

これまでは、夢を見ていられた。
現実を否定することで、
未来には何かあるんじゃないかと思えた。

けれど、光る星なんかない。

夜空に光がなくても、
夜目が効くようにはなった。
そんな仄暗い感じ。

心弾むような未来予想図はないけれど、
行先が明るくない分、足元の現実の暗さは
緩和されてきたのかな。

明日に命を繋ぐために、
何もない日常をただ生きる。
ただ、今日を生きる。


自己肯定感を高めるための
30日間チャレンジ16日目。
折り返しとなりました。

現状、決して高くはないけれど、
必要最低限はキープしている感じ。

人生を楽しみたいと思って始めたけれど、
私が期待したようなハッピー感はない。

ただ、暗いなりに、夜目が効くようになった。

全てを肯定し続けるまだ胆力はないけれど、
否定すれば命が削られるのなら、
そっちを選ぶしかないとも思う。
もう選んでいるのかもしれない。

ただ、なんというか、決めたらやる、
みたいな発想が、私は苦手なのだと思う。

追い詰めると逃げるくせに、
決めたのにやらなかった自分が
赦せなくなるというか。
頑なで、心が狭いのよね。

そういう人間にはならないようにしよう
と、思っていたそういう人間が、私。

そこは認められるようになったので、
逃げたり、やらなかったり、
赦せなかったり、頑なだったり、
心が狭かったりする私を否定しない。

自分を規定するのをやめようと思う。


自分という概念を手放せるくらいに
自己肯定感を高めたい。

概念を手放すから、高くなるのかな?

あと半月、試してみよう。

 fumori 

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