やりたいことがわからないのは、やりたいことを選べない状況にあるということかもしれない。

考え方を変える練習をしようと思う。

選択は、全て正解。

やってみなければ、正解かどうかわからない。
やる前にどれが正解を考えても、意味がない。

迷うなら、どちらを選んでも大差ない。

選んだことを正解にする。
できない理由を考えない。
どうしたらできるかを考える。

今ある人生が、正解。

選ばず後悔している人生については、
パラレルの私が体験しているってことにする。

どこかに成功している私がいる。
そして、誰からも羨ましがられるような生活をしている。

そんな都合のいい現実があるかどうかは問題じゃない。
そういうことにしておく。

気がすむのなら、どれだけ荒唐無稽な理由でもいい。
誰かに理解して、共有して欲しいのは、そこじゃない。

今日、私が伝えたいのは、
やりたいことがわからず、
選択できない時にどう考えるか、です。


どこかに今の私が思う限りの正解を
選び続けた私がいる、とする。

私にとっての理想の私。

そんな人生の成功者である私でも、
可能性を確信することはできない。

人生にも、自分自身にも、満足している。
けれど、ふと思うことがある。

「あの時、別の選択をしていたらどうなっていたのかな?」

フォートナム&メイソンのお紅茶でも飲みながら、
マキシム・ド・パリのミルフィーユを待ちながら、
ファーストクラスのシャンパンをくゆらせつつ、
時々、思いを馳せるのが、選ばなかった別の人生。

つまり、私の選んでいる人生。

食うに困るほどではないけれど、
贅沢な暮らしではない。
持ち家もない。定職もない。
やりたいことすらない。

命懸けで守りたいものも、
大した責任もなく、自由気ままに、
ダラダラと時間を浪費している。

やりたいことがない。
だからこその自由。

なら、私の優先順位は、それなのだろう。

可能な限り責任を負わずに、
子供のように気ままでいたいのかも。


パラレルワールドがあるかはさておき、
別の次元では、望むままの人生を生きている。

だとすれば、
理想とは真逆の人生を選ぶ私だって、必要なのだ。
私自身が、成功のための構成要因というか。

成功するには、
失敗バージョンの自分が不可欠ということ。

人生に生きる意義が見当たらない時は、
架空の世界を味方にすることにしよう。

脳は、整合性に問題がなければ納得する。
現実的に考えなければ、反論しようがない。

都合が良くてもいい。
私が気楽に生きられるなら、幸せに思えるなら、
誰かに押し付けたり、裁いたり、責めたりせずにいられるなら、
なんだっていい。

内心の自由は、
憲法で保障されている権利だもの。
使い方が間違っていたら、すみません。

私の人生は、
成功した私が選ばなかった人生だとしてみる。

ババを引き続けた割には、不幸ではないのかも。
今はね。

過去はどん底の極みだったけれど、
成功した私に苦しみがなかったかはわからない。

妬まれたり、僻まれたり、
苦手な社交場へ駆り出されたり、
成功するためには、成長を求められるから。

ババを引く人生。
それは、お互い様なのかも。

ニーズのない私とは違い、
求められすぎて多忙を極めているかも。

定職がない今の状況には、
不安しかないけれど、
なんだかんだいって採用されているし、
毎回違う仕事を選ぼうと思えば選べるし、
人間関係に深入りすることもないし、
選択の自由は豊富にある。

案外、理想的な生き方だったりするのかな。
…収入額以外は。

うん。優先順位だね。
収入額を一番にしたら、きっとそういう人生が始まる。

今の私にとっての正解が、
気楽に、できる仕事を、
ストレスのない環境でしたいのかも。

やりたいことがわからないのは、
理想とは真逆な欲望を認めたくないから?


正解は、結果ではない。

結果を求めても選ぼうとすると、
できることしか選べなくなる。

外部要因ではなく、
自分の中に眠る望みを叶えるための選択。

本当の望みは、隠されている。
都合が悪い本当の自分と同じ。
赦されてはいないから。

やってみて、現実になって、
初めて気づく。

私は、これを望んでいたのか、と。

たぶん、何を選ぶか、するのかは、
大きな問題ではない。

自分の望みに気づくための選択であり、
答えとしての現実。

それを、受け入れられるか?
受け取れるか?

やりたいことがわからないというのは、
やりたいことを選べない状況にあるということ。

やりたいことではなく、
出来ることしか選べなくなっている。

出来ることは、過去の延長。
望んでいるのは、出来ることではない。

やったことがないこと。
失敗して諦めたこと。

選択に迷ったら、出来るかどうかで決めず、
未体験か、諦めたことを選んだらよいのかも。

変化のために選びたくない方を選ぶというのは、
そういうことなのかもしれない。


大切なのは、何を選ぶかより、
選んだことを正解にすること。

なら、選ぶ基準は変わる。

心が動くのに、
やったことがないこと、
出来ずに諦めたことを選ぶ。

できるかどうかで選ばない。

できるかどうかに囚われなくなれば、
どうすればできるのか考え始める。

正解を選ぶのではなく、
選んだことを正解にする。

成果が出やすい方ではなく、
私が成果を出したいと思える方。

熱意を持てる方。
無理なく努力できる方。

つまり、やりたいことをやる。

履き違えていた。
やりたいって意味が違った。

やりたいけど、
できないことばかりだった。

やろうと思えばできるけど、
努力してまでやりたくないことだった。

やりたいことなら、
夢中でできると思っていたから。

だから、夢中になれなくなったら、
本当にやりたいことではないのだと思った。
そうやって、諦めて、逃げてきた。

選択の基準は、夢中になれるかどうかではない。
成果が出るまで、諦めずにいられること。

壁にぶち当たるのは当然のことで、
どうすれば乗り越えられるのか?

知恵を絞れそうなものを選ぶこと。
考えることが楽しいと思える選択をすること。

好きなものがある人は、好きでいいのだろう。
やりたいことがあれば、もちろんそれになる。

なら、私は?

私が諦めたくないものって、なんだろう?
私が諦めてきたものって、なんだろう?

fumori

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?