なんとなくで選べなくなったのは、いつからだろう?
私とは、物質に干渉できる知性である。
なんて。
自我にとったら私が自我なので、
かっこいいこと言いたいのだろう。
ただ理屈っぽいだけ。
むしろ、理屈しかない。
私の自我は、
辻褄合わせが好きな理屈屋さん。
生真面目で、言葉に囚われやすく、
正解を知りたがる。
そのせいで、
論拠のない感性を疑い、
情報を収集しまくり、
正しい判断しようとする。
とは言え、この世界に
ルールはあっても、正解なんてない。
選択の度に、ビビり倒して、疲れ果てている。
それが、私の自我の日常。
自我が理屈っぽいのは、
言葉を扱う機能の弊害。
なので、
本来は長所なはずなんだよね。
短所になってしまうのは、
正しい判断をしたいという欲。
理屈も、正しい判断を求めることも、
悪いことじゃないのに、なぜ、人生が滞るのか?
ずっと謎だったのだけれど、
良いことが、正しいこととは限らないから。たぶん。
人間社会のルールからすれば、
正しさは良いことになるけれど、
私個人の良いことが、
社会的じゃないことだってあるわけで、
私にとって悪いことが、
世間では善と見做されていることもある。
私にとっての良し悪しと、
社会にとっての善悪は違っていてもいいのに、
言葉に囚われやすい生真面目さから、
社会の善悪と真逆な価値観を持つ自分に対して、
不信感や罪悪感を抱いてしまった。
そのせいで、
私の感性より、社会のルールを優先して、
心を疑い、責めるようになった気がする。
だとしたら、
ただの理屈好きな自我が、
偏屈な理屈屋さんになったのは、
感性を疑ったから。
なんとなくで選べなくなったのは、いつからだろう?
もしかしたら、
人生が滞っている原因の一つかもしれない。
正直なところ、
言うほど、正しくも、善良でもない。
損得勘定だって絡んでくる。
生真面目を自称していいか、定かではない。
けれど、心が動かされたのに、
動けなかった時の言い訳として、
理屈を使っていなかっただろうか?
それをした方がいいと思って、
けれど、別に相手に喜ばれる訳でもなく、
相手にとっていい事なのかもわからない。
ただの自己満足かもしれない。
悪気がない親切が、一番厄介。
お節介は、相手の領域への侵害。
余計なことはしない方がいい。
諦める理由に、
理屈を使っていなかっただろうか?
「そんな気がしたから」
それは、理由にならないのだろうか?
それを理由にしては、ダメだろうか?
なんでかわからないけれど
気のせいかもしれないけれど
なんとなくそんな気がしたから
そんなふわっとした、
気分で選択をすることに、
なぜ、これほど抵抗感があるのだろう。
怖いのかな?
そんないい加減で、いいわけがない。
ちゃんと理由を説明しなさい。
感情に呑まれて、
想いを言葉にできず、
泣き喚くことしかできなかった。
言い返さなければ、
決めつけられて、やり込められる。
うっすらとした、切ない記憶。
言葉は、私にとって武器であり、防具だった。
感情は、私を守るどころか、厄災でしかない。
だから、感性を否定して、
思考に頼るようになったのかもね。
でもね、
真面目に生きてきても、
真面目にはなりきれなかったし、
疲れちゃったし。
ルールのために、自分を疑って生きるより、
ルールに沿って、なんとなく生きててもいいじゃない。
お節介と思われても、
してあげたかったらすればいいし、
した方がいいとわかってることでも、
気分が滅入るくらいなら、
しなくていい方法を考えてみればいい。
どちらにせよ、選択の結果は、
引き受けることになるのだから。
社会のルールを、私のルールにしなくていい。
社会の価値観で、自我を構築しなくていい。
自分以外のルールや価値観を知っているなら、
合わせられる限りを合わせて、
どうしても曲げられない所は、
勘弁してもらうしかない。
理解できなくても、許せなくても、
そうしてもらう以外にない。
自分では、どうしようもならない自分。
私が、今、ここにいるのは、
勘弁してもらっているから、なのかな。
それを自覚していることが、謙虚さなのかな。
相手を立てるのではなく、
本当の自分の至らなさを知り尽くしているから、
出しゃばりの自我が、一歩引くのかな。
自分とは分かり合えない価値観でも、
わからないままにしておけるのかな。
承認欲求だらけの私に、
そんな勇気ある選択、できるかな?
少なくとも、理屈には、その勇気はない。
それだけは、わかっている。
fumori
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