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正解を語るのではなく、正解のない会話をしてみようと思う。

悩むのは、正解を探しているから。

自分にとっての正解。
正解な私、かな。

理想を演じる自我と
認めたくない無自覚な本性。

相反する二人の私。

探していたのは、
両者のバランスを取るための判断基準。

私にとっての正解。
正解を選べる私。

けれど、そんなものないのだ。たぶん。

正解なんかない。
間違えてばかりの私がいるだけ。

理想を演じている間だけは、
正解を生きられるけれど、長くは続かない。

化けの皮は、必ず剥がれる。

私は、いつも間違える。

困っている。卑怯だ。ズルい。
調子に乗っている。
見下している。卑屈だ。
被害者ぶっている。

どれもが、私だ。

行動した結果、そう感じているのなら、それが私。

自我の語る私は、憧れ。
演じきれる時もあれば、
素でやれてる私もいる。

理想の私でいられることは、気分がいいけれど、
その私に拘らないで、感じている私を採用する。

それを言って、それを選んだ後の私は、どの私?
昨日は、卑怯だったし、ズルかったし、困っていた。

そして、昨日からずっと気分が悪い。
その私からなんとか目を逸らそうとして。

自分を責めたり、言い訳したりで、忙しいけれど、
気分が滅入っているのは、それが私だとわかっているから。

正解の私はいない。
間違えている私がいるだけ。

ああ言えばよかったと思っているけれど、
それを言って、それを選んで、私は気分よくいられる?

スカッとするけれど、その後、後悔しない?
言わなかったら、モヤモヤしているでしょう?

心地いい会話は、
後でモヤモヤしたり、後悔したりしないもの。

私にとっても、相手にとっても、
不快にならない選択をすること。

それが、会話なのだろうか?


自我と本性のどちらが正しいか?

私が求めていた正解は、それだった。

けれど、どちらも正しくないし、
たぶん、私の中に正解はない。

正しいのは自分だと言い張っている
間違った私たちがいるだけ。

一つになるものだと思っていたけれど、
二人揃って、一人の私らしい。

自我も本性も、ずっと張り合っている。

案外、似たもの同士なのかな。
喧嘩できるくらい仲がいいのかな。

どちらも正しくないし、どちらも間違い。
正解なんて、私の中にはない。

大切なのは、正解ではなく、私と相手との関係性。

大体、独りでいるなら、
どっちの私でも問題ないのだ。

言った後、私が気持ちよくいられる方を選ぶ。
言われた後、相手が不快にならない方を選ぶ。

たぶん、それだけ。

私の本音とか、正義とか、常識とか、
そんなの会話には必要なかったのかも。

ないわけじゃないけれど、
信頼関係を築くまでは、
相手を不快にさせず、
自分が後ろめたい思いをしない言葉を選ぶ。

犠牲でもなく、迎合でもなく、
互いに不快にならないこと。

それが、会話のルールなのかもしれない。

それが暗黙のルールだとすると、
そりゃ、出しゃばりになるよね。

犠牲か迎合か本音しか選べないんだもの。
全部、私がどう思うか、だもの。

自分語りなんて、聞きたくない。
共感していたいんだ。安心していたい。
それが、会話のプライオリティ。

不快にさせないことが会話の最低限のマナーだから、
雑談にとって、噂話は無難な話題なのかも。

旦那の愚痴や近所の人の噂話をしているおばさま達こそが、
案外、幸せの達人なのかもしれない。

さて、私はどうしようか?

愚痴を聞いて気分が悪くなるなら、
相手を不快にさせずに、何を言えばいいのかな?

会話をしてみよう。

私の中の正解ではなく、
正解のない会話を。

自分の気持ちが曇らず、
相手を不快にさせない方を選ぶ。

話の内容の正誤ではなく、
安心できる対応を選ぶ。

合っているかわからないけれど、
やってみよう。

fumori

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