母から受け継いだもの。

ついに父に忘れられてしまった。

分かってはいたことなのに、
想像していたより、遥かにショックだった。

父にとっての私が、その他大勢と同じ扱いになってしまった。
娘としての私が、父の中から消えてしまった。

父にとっての私が、特別な存在ではなくなって、
初めて、娘として認識されていたことが
愛だったことに気づいた。

父の娘としての私とは、
父が思い込んでいる私であって、
本当の私ではない。

父の娘である私は、父の中にしかいない。

なので、
身勝手な娘像を押し付けられている
としか思わなかったし、反発もした。

けれど、
許容できる範囲は、父が思う私を、
無意識に演じていたと思う。
愛されるために。

そして、私でいるために。


父も母も、誰も私のことなんか理解していない。

そのくせ、分かっていると思い込んで、
勝手を押し付けてくる。

そう感じて、腹を立てていたけれど、
身近な人が思い込んでいる「私ってこう言う人」
という決めつけが、私だったことに気づいた。

相手が望む役割は、確かに押し付けられたものだけれど、
それを演じている間、私は私でいられた。

生まれた時から、与えられてきた認識を失い、
とてつもない開放感と同時に、心許なさに襲われた。

私の中に、私はいない。
私には、誰かが定義した私しかいなかった。

私が思う私とは、他者が思う私の寄せ集め。
相手が望む私を演じているだけ。

役割を与えられなければ、表現すべき私はいない。

私とは、そんなにも空っぽな存在だった。


役割以外の自分という存在を、持て余している。

多分それは、母から受け継いだもの。

役割に没頭した母は、
個性を埋没させた。

母であろうとするあまり、
自分ではいられなくなった誰か。
嫁であろうとする余り、だな。

愛することができなかったのは、
私ではなく、嫁や母や妻や娘という役割以外の自分。

私が彼女に母としての役割を求めていたのは、
私が彼女の子役としての振る舞いを求められたから。

私が求めていたのは、母自身ではなく、
役割としての母だった。

子供である私の振る舞いは、親である母の真似。
役柄から抜け出せなくなっていたのは、母だった。
たぶん。


求めていたのは、
互いに与えられた役割を演じること。

役割以外の私と母は、どこにいたんだろう?

途切れてしまったのは、個としての相互関係。
キャスティングされなかった無役な私たち。

演じる必要のない私たちには、
セットも、メイクも、衣装も、シナリオもない。

ただのマテリアル。
個性的な肉体と、対等の命。

なんの制約もない、ただの命として
向き合ったことがあっただろうか?

老いた父に忘れられて、
初めて父の認識する自分を生きてきたことに気づいた。

それは、私ではなかった。
父が思う私がやりそうなことであり、
私が言いそうなことを言う私。

求められたことはないけれど、
生まれてから当たり前にその役割を果たしてきた。

私が父母に望んでいたのも、それだった。

望まれた子役を演じる代わりに、
私が望む親としての役柄を求めていただけだった。

求める役柄と、演じられる役柄とのギャップが、
諍いと悲しみだったのだな。

その裏にあるのは、
個性への偏見と制約だけれど、
それが、人間としての愛なのだ。たぶん。

愛されたかった私は、求める役柄を演じない母への怒り。
私だって、演じきれなかったから、
怒られたり、喧嘩になったのにね。

役割としての愛は、人として最大の愛だ。
命として対等であることは、
誰もが平等であるということ。

人の愛はもっと偏っている。
みんな個性だから。
だから、熱量があり、依存するほど甘美なのだろう。

たとえ役割であっても、
求めずにはいられないほどに。

自分なりに相手を認識することは、愛だった。

押し付けられると迷惑だけれど、
その他大勢ではない誰かとして認識されることは、
その人なりの愛なのだろう。

まぁ、親ほどの恩がない相手に、
望み通りの私を演じたりはしないけれど。

愛の反対は無関心と言うけれど、
まさか、認識が愛とは思わなかったな。

fumori

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?