見出し画像

50年間何もしてこなかった私のための幸福論。

「50歳にもなって、
やりたいことを探している人は、
何もしてこなかった人」

そんな言葉に触れ、
仰る通りと思ってしまった。
そんな自分に傷ついている。

言い訳させて貰えば、
何もしなかった訳じゃない。
社会的な成功を犠牲にして、
探し続けた挙句、賭けに負けた。

何も為せなかったという
結果は同じなんだけどさ。


本当は、私だって成功したかったし、
憧れられるようなキャリアとか、
スキルとか欲しかったし、
老後の不安や、
金銭的な心配なんかせず、
リタイアを楽しみに生きていたかった。

今にして思えば、
私自身の無価値観とか、
存在への罪悪感とか、
愛されたかった不足感とかを
現実的ななにかで補いたかっただけ
なのだろうけれど、それで十分だ。

何もないよりは、あったほうが全然いい。

死ぬ前に後悔しないように生きてきたはずなのに、
何も為さず、何も得ず、これが私の人生だ、
と思えるものが何もない。

自分なりに頑張ってきたけれど、
お金も地位も名誉も権力も影響力も
センスもフォロワーも、なにもない。

そんな私のような非成功者が、
老後を生きるために捻り出した
希望について語らせてほしい。

先ずは、前提を変えましょう。

私の価値観は道徳的かもしれないけれど、
現実的な成功にはそぐわないものである。
これまで成功してこなかったもんね。

さて、成功とは、なんぞや?

成功とは、目標に向かって
努力することで得られる結果。

はい。それが、敗因です。

そもそも、人生における成功とは、
人生がなんなのかによるもの。

これまでの人生は、感じることだった。
感情を心のままに体感すること。

感情は、
過去に選んだ価値観によって変化する。

人生とは、価値観を選ぶこと。
その答えが、現実。

過去の選択によって、
今ある価値観を現した世界。

つまり、現実を創っているのは、
私自身の選択。

なら、今、選択を変えれば、
これから先の人生は、
これまで通りではなくなるはず。

現実は選択の結果であり、
全ての幸不幸は、私自身が選び、
生み出したものである。

これが、一つ目の前提。


二つ目の前提は、
今、生きているのなら、
最善、最適解です。

生きる意味みたいなことを考えてきたけれど、
たぶん、理由なんてない気がするんだよね。

家族や社会に必要とされている人が
亡くならなければならない理由なんて、ある?

事故や事件に巻き込まれた方に
原因なんてある訳がない。

生死には、理由なんかない。
あるとすれば、たぶん、運みたいなもの。

だから、今、生きているのなら、
生きる理由がなくても、勝ち目なのだ。

寿命が来たら死ぬしかないとしても、
それまでは、命を担保に、人生を自由に選び、
望む現実を生きる権利を与えられている。

それが、人生。


とは言え、
私のように望まない現実を生きている場合、
そして、今更、望む人生は得られない場合は、
どうしたらいいのでしょう?

人は幸せになるために
生きているのではないの?

幸福を追求する権利さえ奪われたら、
生きている理由なんてないわい。

さて、次のテーマは、幸福です。

私の幸福は、
ハッピー感に満たされることでした。

けれど、幸も不幸も、主観なのです。
同じ出来事でも、
その時のメンタルによって、
感じ方そのものが変わってしまうのでした。

命を担保に、人生を賭けてまで追い求める
ほどの価値は、ないかもしれないのです。
あくまでも、私の場合ですが。

それに、もちろん、好きですけどね。幸せ感。
依存したくなるほど、魅力的ですし。

ただ、一時的な感情に過ぎない主観を、
人生の目的にしても、
幸せになれるとは思えないんですよね。

なので、
私は、幸福感に満たされるために
生きることをやめます。

私が幸せになるために、生かされているのではなく、
命を幸せにするために、この人生を与えられている。

そう考えてみる。
少しはハッピー感に依存せずにいられそう。


与えられているのは、
命ではなく、人生。

命が尽きるまで、
自由に生きることを赦されている。
望む人生を生きる選択肢もある。

私は、望む人生を生きられなかったけれど、
今後は望む現実を選ぼうと思う。

社会的な成功に繋がる選択肢は、
今はまだ見出せないし、
万が一を狙う無駄な努力はもうしたくない。
なので、当面の目的を変えるつもり。

幸せになることは、諦めない。
けれど、幸せの定義は変える。

そして、与えられた人生に於いて、
この命を幸せにする。

私は、残された人生を使って、
過去の選択によってもたらされた結果を回収し、
カルマ的な因果を生み出さない選択をする。

人生には、ラッキーとチャンスしかない。

生きているだけでラッキーなのは、
カルマを回収し、それを生み出さない自分に
戻るチャンスを与えられ続けているから。

幸も不幸も、私が蒔いた種なのだ。

種では見分けがつかないから、蒔いてみた。
育った挙句が災いなら、刈り取って、
幸せだったら、収穫し、
残された時間を考えて、
小さな幸せの種を植える。

たぶん、今がその時期。

これまでの失敗から、
種の見分けはつきそうだ。

最期は、何も撒かずに、
綺麗に手入れされた庭だけを残して、
地球を去ろうと思っている。

人生には、幸不幸があるけれど、
不幸はチャンス。幸福はラッキー。

ネガティブな感情は、
カルマをカルマを回収するサイン。

ポジティブな感情は、
カルマを生み出さない選択のサイン。

感情は、目的を示すツールであって、
感情に支配されないように。

幸福な時も、不幸な時も、
人生には希望しかない。

希望とは、チャンスとラッキーである。

その希望のために、
私は命を使うことにしている。


50年なにもしてこなかった私だけれど、
ネガティブな事象をチャンスと解釈する方法
には至ったみたいで、なによりだ。

 fumori 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?