見出し画像

世の中に、バカでない人はいない。

バカと言われて、腹が立つのは、
自分のことをバカだと思っているから。

バカな自分を恥じて、
バカではない自分になろうとして、
でも賢くはなれなくて、
いなかったことにするしかない状態にある。
と言うこと。

けれど、
そもそもバカかどうかは、人との比較でしかない。

標準より劣っているとしても、
馬鹿であることを自覚するだけの知能があるなら、
全能力が劣っているはずもない。

恥じる必要なんかない。
ただの個体値。ステータス。
個性の範囲内。

なので、
賢い人は、人に向かってバカって言わないのかも。

言われても、私ほど腹を立てたりはしないと思う。
恨んだり、憎んだりまでは、できないんじゃないかな。

だって、数値だから。

いや、何当たり前のこと言ってんの?
能力を細分化したら、誰しも、
どこかしらでは、バカじゃん。
言うまでもない常識じゃん。
みんなわかってることを、
なんでわざわざ言ってるの、この人?
あ。バカなんだ。

バカと言われて腹が立つのは、
無自覚に自分を見下しているから。

バカと言うのは、相手を蔑めて、
自分と同じステージに引き摺り落としたいから。
若しくは、自分の方が上だと、
マウントを取って、優越感に浸りたいから。

世の中に、バカでない人はいない。
そこに無自覚だと、勝手に劣等感を抱いて、
感情に巻き込まれてしまう。

低めな能力を、
「恥じるべきバカ」に振り分け、
まんまと憤っておりましたよ。私。

バカって、便利な言葉なので、誤解しやすい。
主語がないから、個別の能力ではなく、
個人をまるまるバカで括ることもできる。

自分をバカだと思った結果、賢くなろうとした。
そうやって、
標準より劣っている能力を高めようとしてきた。

いや、効率悪かろう?
賢くなかろう?

優れている能力を伸ばせば、
簡単で結果も出やすいのに、
努力しても人並み以下の能力を伸ばして、
なんになるのさ??

本当に、それ。

バカと言う人は、バカである。
そして、私はバカである。

それが結論。

さて、半世紀かけて、
バカな自分を認めることができたわけですが、
認めてしまえば、これまでの理不尽なアレコレに
辻褄が合ったりするのだから、あら不思議。

現実が理不尽なのは、
自分に対して辻褄の合わないことを強いていたから。

自分を偽っていたから。
バカなくせに、賢いフリをしていたから。

賢いフリをしなければ生きられない世界では、
背伸びをし続けなければならないわけですよ。

バカではないセルフイメージを保つために、
苦労が絶えないわけですよ。

バカな私には難しくても、
賢い私には、なんなくできる設定なので、
生きる全てがハードモードですわ。
そんなヘビーな現実を頑張っちゃったわけですよ。健気にも。

それが、ニーズがない世界の正体。

何をしても、居場所がない。
ここにいていいと思えない。

なので、社会に合わせて、
自分を変えようとしてきた。

なのに、
そんなこと、社会は求めていなかったんだよね。

「適正、低いですね」
そう指摘されただけ。

標準値内の能力も、平均値より高い才能も、
ちゃんと評価されてたとは思う。記憶にないけど。

そっちサイドの結果が出やすい能力を伸ばせば、
人生楽勝だったかもしれないのに、
足りない能力を高めることに集中した。

ないものは仕方がないけれど、
持てる能力に関しては、標準値内まで
高めなければならないと思い込んでしまった。

なぜなのか、わからない。

仮に、社会が求める全てに適合できる人間になれたとして、
どうしたかったんだろう?

選択の範囲は、広がるよね。
求められることは、増えるよね。
私にニーズも生まれるよね。

それが、私が望む世界なのかな?

求められない世界は辛いけど
だからと言って、
求められる世界は、幸せなのだろうか?

誰かのニーズを満たせば、私は幸せ?

私が幸せになることをして、
誰かのニーズを満たすことだってあるかもしれないのに。

社会に貢献するため?
個人の幸せのため?

たぶん、どちらでもいいのだ。
どちらも同じ場所にたどり着く。

選ぶのは、私だ。


社会の価値観にそぐわない私がいる。

それは、ただの評価。ただの数値。
平均よりも低く、標準値を外れている。
それだけのこと。

社会に適合できなくても、何の問題もない。

適合する才能で生計を立てれば、楽だよ。
頑張れば、結果が出るよ。

社会の価値観は、生きやすい方向を示す
親切なアドバイスみたいなもので、
私を縛るものではなかった。

実際、反骨精神満々で、
生き辛い人生を選んできたわけですし。

バカなのだから、おバカな私が
生きやすい世界を選んだらよかったのに。

なんでいつも逆を選ぶんだろう。

世界が広がると、そんな間違いに気づく。

けれど、
それが間違った選択かどうかは、
後になってみなければわからない。

私が望む幸福は、自覚できるキャラの願望。

封印されたキャラの想いとは、
反する可能性もある。

全ての私にとったら、
叶わなくてよかった幸福だって
あるのかもしれない。

幸福が不幸の入り口であるように、
不幸も又、幸福に通じている。

私には、全貌が見えない。

なにが私にとってのベストなのか。
私にはわからない。

私が感じる不幸は、
今の私の狭い世界での認識であって、
未来には反転しているかもしれない。

今の私からしたら、
間違いとしか思えない選択でも、
当時は幸せになるために選んだもん。
不幸になるために選んてはいない。

世界が広がれば、幸福の果ての不幸や、
転じて福となった災いに、
気付けるようになるかもしれない。

身の丈に合わない世界を選んだことも、
いつかそれが恩恵だったと思える日が来るかもしれない。

そう考えると、最善しかないんだよね。

過去も、今ある現実も、これから来る未来も、
そうとは思えない出来事も、選ぶ全ては最善。

ラッキーから始まり、調子に乗って失敗する。
幸運な出来事によって、不幸が引き起こされる。

いいことがあれば、浮かれてしまうのが、
人間の性質でしょう?
調子に乗るなって方が、無理だもの。

逆もまた然り。
世界が狭いから、不幸と認識しているだけかもしれない。

選択する全てが最善なら、
生きることに怯えなくてもいいのかな?

賢いフリをして実りのない努力をしてきたことも、
無駄にハードな現実を選んでしまったことも、
最善だって思える時が来るのかな?

バカと言われても、
以前より傷付かずにはいられそうだけど…

その程度じゃ、割に合わないよなぁ。

fumori


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?