愛は、無自覚の中にあるのかもしれない。

私は、自我を自分と思って生きているけれど、都合のいい価値観を寄せ集めたキャラらしい。

自我が作り込んだキャラは、理想が高すぎて、演じきれずに落ち込むことが多かったし、そんな不快な気持ちを抱かせる現実の都合の悪さを恨んできた。

そんな自己嫌悪が続いたせいで、自己肯定感は底をつき、自己否定へと転落したのなら、悪いのは、現実ではなく、キャラの設定?

なんてことに、ようやく気づいたら、人生も残り少なくなっておりました。

自我と価値観を切り離してみると、私という人格も、私特有の価値観も、オリジナルなものなんて、何もなかった。
私のものだと思っていた価値観は、世の中に溢れる誰かのものだった。あるのは、聞き知った価値観を認識している意識だけ。

私の中に、私は存在しない。けれど、私以外なら、全てある。

何かがあるとは思えない。けれど、満たされているような気もする。空っぽで満たされている。そんな感じ。

淋しさで満たされていた時も、こんな感じだった。満たされているのに、その感情が淋しさとは気づかなかった。

淋しいという感情は、知識として知っていたし、人生で幾度となく感じていたはずだけれど、多分、誰かの淋しい価値観を借りていたのだと思う。このシーンで得られる感情を、淋しさって呼んでいるから、そうなんだろう、と。

心が淋しさで満たされていると気づいた時、初めて自覚した。心がどんな状態になったら、淋しさと呼べるのか。

情緒的で、感情に呑まれやすいのは、感受性が高いからだと思っていたけれど、もしかしたら、理性的な機能が、大幅に欠けているのかもしれない。

湧き上がる感情に対して、振り分け方が大雑把な気がする。
喜怒哀楽ぐらいしか選択肢がないから、淋しさを悲しみとして認識していた気がする。

なら、私すらいなくなった、何もないはずの心が満たされていると感じるのも、当てはまる感情がわからないでいるのかもしれない。

そういう感情があることはデータとして知っているけれど、今、感じている感情の名前がわからないとしたら?

空っぽなのに満たされている。淋しさではない。嫌な感じはしない。
むしろ、安心している。なんの躊躇いも、疑問もなく存在している。

これを、愛と呼んでいるのかな?


私が思っていた愛とは違う。

濃度が薄い。安心感と言っても、絶対的な感じはしない。圧倒的でも、熱くもない。ほんのり、じんわりした温かさ。

とても恋愛には至らない。情熱とは程遠い。
どちらでもないけれど、ちょっと心地いいかな。その程度。
とても、愛とは思えない。
けれど、たぶん、これが愛と呼ぶもの。

一切の否定なく、ただ存在している。
それは、肯定し続けているということ。
命を。今を。ここにいることを。この世界の全てを。

私は自我なので、ずっと愛ではいられない。
それでも、キャラを演じる私より、愛の意識は心地いい。
なにかしようとすると、自我の私が始まるので、私が愛でいるとしたら、自分に意識が向いていない無自覚な時なのだろう。

愛は、自我とは共存できないのかもしれない。
なら愛は、無自覚に表現するものであって、意識的にできるものではないのかも。

愛を知ることはできたけれど、愛を体現することは難しそう。

 fumori 


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