欲望が焦がれて止まないものについて。
「なんでこんなに迷うのだろう?」
について考えていたら、
どっちでもありな世界線だから
という結論に達してしまった。
迷うってことは、
選べる余裕があるということ。
危機的状況なら、
決めるより素早く反応している。
今度遅刻したらクビになるのなら、
ノーメイクでも出社する。
クビにならないから、
コレじゃないとか言って、
出がけに服を変えたりするわけですよ。
本当は転職したいのに
自分から辞めるのは気が引けるので、
リストラ待ちしているというのもあるかも。
例えがあらぬ方向に行ってしまったけれど、
迷うという状況は、
実際にできるかどうかは別にして、
やろうと思えば出来る!
とか内心では思ってるのだろうな。
デメリットが大きいから、
悩んでいるフリをして、
成り行きを見ているというか。
デメリットを最小限にする方法を
見出そうとしている。
迷える私は、強欲なのだ。
故に、チャンスを逃しがち。
けれど、波に乗れたら、
最大級の還元を受けられる。
優柔不断な性格を嘆いてきたけれど、
案外、タフなギャンブラーなのかも。
ポジティブに言い換えれば、
不安定な状況に耐える力がある
とも言えなくはないわけで、
迷っていられるうちは、
そうしていればいいのかもしれない…
なんて、呑気に思う今日この頃。
強欲なので、
デメリットが大きくなれば、
即座に手を引くだろうし。
チャンスは逃してもいいから、
損はしたくない。
これが、今の私の最強の欲望なのだろう。
自分の中に眠る欲望を知ろう。
どれほど醜い利己的な欲望であろうと、
目を逸らすことなく、ガッツリ向き合う。
そう決めて、
思考を溶かし、心を透過し、
我が身可愛さの欲望に辿り着く…
と思いきや、何を願っているのか
さっぱりわからないまま数日が過ぎた。
そして、昨日、
欲望を満たすために活動したのでした。
いい音楽を聴き、
食べたいランチを食べ、
好物のおやつを買い、
出来立てをかぶりつき、
新しいパイ専門店に立ち寄り、
心が求めるままに行動した。
なのに、なんだか噛み合わない1日だった。
演奏は素晴らしかったのに、
音に集中できなくて、
全然別のことを考え始める始末。
ランチでは、おすすめの牛すじの煮込みか、
チーズとろけるダッカルビ丼かで迷ったものの、
外が暑かったので、石焼きはキツイかな?
と思って、頼んだ牛すじの煮込みが、
激アツのスープ仕立てだったり。
汗だくなのに、ハンカチを忘れてたり。
牛すじはお勧めなだけあり、
相当に美味しかったのだけれど、
求めていたのはチーズっぽい濃厚さでさ、
口寂しさを埋めるため、
カスタードクリームの今川焼きを買いに行ったら、
タイミング悪く大量注文が入っていて、
どえらい待たされたり。
快晴の青空。
初夏の爽やかな風。
望みのままの選択を許された最高の休日。
になるはずだったのに、
なんだか全部が半音ズレている感じだった。
幸せなことは間違いないのに、
最高まであと一歩感を抱きつつ、
ぷらぷら歩いて、公園に行き着いた。
そこは桜の名所で、
満開の桜を見たばかりだと思っていたら、
今や新緑の濃淡と眩しさで埋め尽くされていた。
風が強くて、
紅葉の柔らかな青葉が頷くように揺れていて、
木漏れ日の古びたベンチで、
芽吹きの緑の多彩さに心奪われていた。
暫くどころではなかった。
体が冷え切っても尚、離れがたかった。
結局、何もせず、ぼんやりと
他愛もないことを考えながら、
心地よかった風に冷たさを感じながら、
緑の美しさから目を離せなくなっていたその時間が、
一番気持ちよかったのでした。
昨日、満たそうとしたどんな欲望よりも。
欲望は、一つではない。
常に、幾つもの欲望が私の腹の中では渦巻いている。
どれも間違いではない。
どれも間違いなく、私の欲望。
昨日選んだ全ては、私の欲望だった。
噛み合わなかったのは、
優先順位の違いなのかもしれない。
ずっと「愛されたい」と願っていた。
その強烈な願望は、
愛されることを阻害する他の欲望を駆逐した。
整合性を保つために、
プライオリティが重視された。
何かを選ぶことは、
他の可能性を捨てること。
未だに愛されたい私はいる。
けれど、最優先の欲望ではなくなった。
今の私が求めているのは、
私を満たすことではないのかもしれない。
お金をかけて、私を楽しませることより、
時間をかけて、なにかを成し遂げることより、
私が気持ちいいと思える場所にいること。
気持ちの良さを感じられる今を選ぶこと。
いい天気と、いい風と、
心地よい日差しと、豊かな緑と、静かな公園と、
学生の頃からあった気がする年季の入ったベンチと、
それらを気持ちがいいと感じる意識。
正しいより、楽しい。
楽しいより、気持ちがいい今。
楽しさより、気持ちよさの方が、
プライオリティが高いのかな。
気持ちのいい今を選べることが、
現状の幸せに一番近いのかもしれない。
今、私が感じられる幸せは、
現実世界の素晴らしさにインスパイアされたものだけれど、
つまるところ、素晴らしさを感じられる心による。
現実はニュートラル。
どう感じるかは、
今ある私たちのベクトル次第。
欲望も、意思も、現実も、
感じる心がなければ、ただの思想や現象。
感じる心が、世界を生み出している。
なら、心から溢れる世界観を、
現実だとか、思考だとか、情熱だとかに
分類しているだけなのかもしれない。
幸せを求めるのなら、
幸せを感じる心を養えばいい。
豊かになりたいのなら、
豊かさを感じられる心を養えばいい。
現実がどうあれ、
価値観がなんであれ、
求めているのは、感じる心なのかもしれない。
求める感情を生み出す心。
欲望が焦がれて止まないのは、
そんな奇跡の聖杯なのかもしれない。
私は、何を感じたいのだろう。
私の感じたい幸せとは、どれなのだろう。
この命を賭して、それに出会えるだろうか。
それを、幸せと認識しているのなら、
私は答えを知っているはず。
過去、それを体験しているはず。
いつか、再会できるだろうか。
その時の私に。
それが、私の望む幸せとは、限らないけれど…
どれを選ぶかは、いつだって委ねられている。
fumori
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?