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理由なく人を嫌いになってもいいのなら、人が私を好きじゃなくてもいいのかも。

全然、違った。間違えた。

幼い頃の僅かな間、
無自覚に世界を愛する私がいた。

そんな私は、求めずとも愛されていた。
それが、私の願いだった。

ただの私に還るというのは、
そんな無敵な私に戻ること。

成長する為に獲得した言葉による分断や
与えられた社会性によって失われた私を取り戻し、
もう一度、世界を愛したかった。

そんな期待を抱いていたけれど、
手放さなければならなかったのは、その期待。

愛されて、幸せだった過去への執着。

あれは、フィクション。やらせだった。


この世界を愛していた私がいたのも、
世界から愛されていた私がいたのも、
嘘じゃない。

けれど、
愛されていたのは、子供らしさだった。

子供だからこそ許される自由な振る舞いは、
大人であれば許されない行為を代行することができる。

それが、愛された私の正体。

愚かで我儘な私は、無自覚に
周囲のニーズを満たしていたのかもしれない。

周囲の思惑によって、
愛された子供でいさせてもらえただけ。

私に戻るべき過去はない。

ありのままの私が、愛されたわけではない。

あくまでも相手の立場や基準や都合の範囲内で、
私自身でいることを許されただけだった。

ありのままを愛されたと思い込んでいたけれど、
周囲が私を愛する脇役を演じてくれていただけ。

それを、自分の魅力だと思い込んでいた。
恥ずかしながら。

完全なる勘違いではあるけれど、
そう思い込めるほど容認されていたのなら、
それは、とても恵まれていたことなのだと思う。

幼い私は、極々短い間だけれど、
クリスマスの奇跡みたいな輝かしい時間を
過ごしていたのかもしれない。


ありのままの私を愛されたことなんかなかった。

ただの私に還ったところで、
愛されはしないだろう。

人生を振り返ってみれば、明白だもの。

好かれていることの方が稀なのだから、
ありのままの私だろうが、なかろうが、
私は人から好かれない。
それが、デフォルト。

だからこそ、執着したのだろうね。
人生の中で、ほんの一瞬でも存在した愛された私に。

子供らしさに向けられた愛を、
自分自身へのものだと勘違いして、
追い求めようとした。

私は人から好かれない。

そんな残念な標準仕様の自分から目を逸らす為に。

気づいてしまったからには、
人から好かれない自分で生きてゆくしかない。

ガッカリだけれど、気は楽だ。

だって、人から嫌われても、当然なので。

これまでは、人から嫌われないように、
仲良くなる為にとできない努力をして、
逆に相手の感情や態度を強要してきた。

努力しているのだから、嫌わないで欲しい。

なんて、考えてみたら、支配と紙一重だ。

相手には、私を嫌いになる権利がある。
なら、私にも同等の自由はある。

人から嫌われることを受け入れたら、
人を嫌いになってもいいのだと思えた。

人を嫌いになる自由を、ずっと制限していた。

内心の自由を誓っても、
嫌われたくなくて、自由を犠牲にしていた。

どちらかしか選べない。
わかっていても、自由を選ぶ勇気がなかった。
無意識に、選択肢が消えていた。


嫌われることは怖いし、不快だ。

なぜ、私を嫌うのか?
そう相手に問いたくなる。

どうすれば私を好きになってもらえるのか?
理由を知る為に、相手を理解しようとする。

それが、要らぬお世話だったんだよね。

嫌われたのなら、深追いしても無駄なのだ。
だって、嫌いに理由なんてないのだから。

理由なく嫌いになるのは、
いけないことだと思っていた。

けれど、
虫が好かないとか、なんとなくとか、
そんなぼんやりとした理由でも、
嫌いになってもいい。

もちろん、嫌いだからと言って、
相手を否定しないことが
大人の前提にはなるけれど。

嫌いでも、挨拶はするし、雑談もする。
時には、楽しくお喋りだってできる。
けれど、好きになろうとしなくてもいい。

いい人だからといって、好きじゃなくてもいい。

なろうとして好きにならなくてもいい。
それが、私の求めていた自由だった。

好き嫌いがある分、
相手にも同等の自由を与えられる。

仲良くすることを求めない。
理由がらわからない好き嫌いを自分に許す。
なので、嫌われても当たり前だし、
むしろ、私を嫌いな人は、
それだけ関心を抱いているということ。

世の中の殆どの人は、
私のことなんか何とも思っていない。

目の前にいて、喋りかけない限り、
私のことなんか考えたりしない。

その程度の存在感しかないのだから、
好かれることがらない代わりに、
嫌われることも稀なのだ。

世界は私に無関心なので、
恐れなくてもいいのかもしれない。

好かれることは嬉しいし、
嫌われることは怖いけれど、
日常の99% は、どちらでもない。

そう思ってみたら、少しは気が楽になった。

fumori

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