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実現可能な夢を見る前に、実現不可能な現実を選んでいる可能性を考えてみる。

世界を広げよう。
人と出会おう。

今の自分を救う為に。

そう思ったものの、
実際、人と会ったら、萎縮してしまった。

スタートは上々。
些細なミスや、相手のちょっとした変化が重なり、
どんどん自信が削られ、不安が広がり、
ネガティブに呑まれてしまった。

相手を信用できない。
つまりは、自分を信じられない。

人目が気になるのは、
仲良くなることを目的にしたから。
そう思っていたけれど、
敵対しないことを目的にしても、ダメだったヨ。

もっと自分中心の目的にしたらいいのかな?
それが誰かの迷惑になったら、やっぱり嫌だしな。

自分がいいと思うことをしたなら、嫌われても構わない。

そこまでの覚悟は、ないんだよね。
信念に至るほど、場数を踏んでいない。
自分なりの正しさを信用できない。

謝ることが嫌というのもある。
だから、間違えたくない。

心はままならない。
思った通りに、動いてはくれない。

意のままにならない心が嫌いだった。
たぶん、憎んでいた。無自覚に。

どれだけ考えを巡らせても、
幸せになるためだと諭しても、
理由もなく反発しやがる。

嫌なものは、嫌だ。
そんな理由で、まかり通そうとする。
理不尽で、忌々しい限り。

そんな我儘が通るなら、最初から選んでいるっつーの。

そうやって、意志に基ずいて、
心をコントロールしようとしてきたわけだけれど、
よく考えてみれば、失敗して当然なのであった。

私が考えられる範囲は、意識の5%程度。
人生は残り95%の潜在意識によって成り立っている。

潜在意識が変われば、現実も変わる。

情報としては、知っていた。
けれど、理解していなかった。

どうしたら潜在意識に顕在意識の意思を
落とし込むことができるのか?

そればかりに囚われて、
私が考えられる範囲が5%である
という意味を理解していなかった。

私は、自分自身の95%を理解していないし、
理解できないということ。

理解するということは、思考による言語化。
理解できたなら、5%の範囲内という証明。

私は、どこまで行っても、
5%の自分しか理解できない。
その可能性に気づかなかった。

いつかは自分を知ることが出来る。
そう思い込んでいた。

どれだけ世界を広げようとも、
私が理解できるのは、世界の5%だけ。

分母である世界を広げれば、
5%の自分も広がるので、
以前よりは自分を知る事はできる。

けれど、自分の世界も広がっているので、
知らない自分の総量は同じ。

いつまで経っても、
95%は知ることのできない自分。

衝撃なんですけど??

私が生きている世界を100%とする。

けれど、
私が全部の世界だと信じて疑わないそれは、
全体の5%でしかないということ。

私が感じられる世界は、全体の5%であって、
残こりの95%は、体感できない世界。

ええ?
そんな訳のわからない世界を、
たった5%の力だけで生きているのかい?

凄くない?
そんな微かな能力だけでサバイブしてるなんて。
偉いよね、わたし。
めちゃくちゃ、頑張ってるね。

というのが、第一印象。

けれど、5%の私がそう思っている世界観が、
間違っている可能性もあるわけですよ。

「頑張らないと生きられない世界」
「頑張っている私は偉い」
「少ない能力では生きにくい」

5%の私が見ている現実は、そう言う世界。

確かに、現実は世知辛いし、油断してたら騙される。
働くことも、人付き合いも、生きることも辛い。

そんな世界を生きている。
けれど、それが全世界の5%でしかなかったら?

私の中にある「現実とはこういうもの」って、
5%しか理解できない私が、
情報や経験を基に世界を固定しているもの。

なら、本当は100%ある現実から、
固定概念に相応しい現実を5%だけを選び取って
体感しているだけかもしれない。

私が体感できる現実は、
世界の5%でしかないのだけれど、
私はそれを世界の全てだと信じている。

見えていない95%の世界が存在していても、
理解できるのは5%の体感できる世界だけ。

理解できる範囲からしか選べないから、
見えない世界がどれほど理想であっても、
それを選ぶ事はできない。

「現実とはこういうもの」

それ以外の世界を夢見る事はできる。
95%の選べない世界には存在する。
けれど、
理解できないから、体感できない。
見ることも、選ぶこともできない。

真実とは言い切れないけれど、
嘘であることも証明できない。

仮に、それが本当なら、
どんな現実を願うだろう?

生活のために、働かなくていい。
働くことは、自分の歓びのため。

それが誰かの役に立つなら
もちろん嬉しいけれど、
誰かが喜ぶから働くわけではない。

やりたいことがないのは、
やると楽しいことが、
お金にはならないから?

なら、楽しいことをして、お金を稼いで、
好きなことに使ってる世界がいい。

楽しいことって、なんだろう?
意味もなく、メリットもないけれど、
やってると楽しいことって、なんだろうね?

心の中で踊っている小さな私みたいに、
なぜだかわからなくても、
そうしていると楽しいこと。
取り敢えず、踊ってみる?

なんか、人生って楽しそう。

人生が辛いのは、
採用している「現実というもの」が、
生きにくい設定だからなのかもしれない。

現実をよりよく生き抜くためにと与えられた情報が、
5%の私には、負荷が大き過ぎたのかもしれない。

辻褄が合わないのは、
情報が間違っているというより、
5%の私では理解できないことだったから
かもしれない。

自分も、現実も、そこに登場する相手も、
体感した100%は、全体の5%に過ぎない。

私には、全てを理解する事はできない。
体感した世界は、全てではない。

なので、分かろうとしなくてもいいのかも。
理解しようとしてもいいけれど、
理解した気になったら足元救われるというか。

まぁ、あんまり気合い入れずに、
もっとのびのび生きられる世界がいいな。
選べるものなら。

人に萎縮する私を変える事なく、
萎縮したままでも生きられる世界とか。

人生辛いとか文句を言う私を、
ブツブツ言わせておいてあげられる世界とか。

現実が辛いのは、
こうしなければならない私を赦せないから。
まだ赦せないんだ。認められない。愛せない。

望む現実を選ぶだけなのか、
赦せない自分を認めれば済む話なのか、
何が苦しみの原因なのかはわからない。

理解できないことは、悩まない。
理解していることが、正解とは限らない。

私は、理解できるより大きな世界にいる。

萎縮してしまう理由が理解できなくても、
のびのび生きてゆく事はできる。たぶん。

95%の潜在意識という説が本当かどうかは、
5%の私にはわからないけれど、
世界の5%しか理解しなくていいと思ったら、
少しは気楽に生きられそうだ。

fumori

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