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自我が創る幸せな物語を見守っていられたら、私も幸せだと思う。

好きでいて欲しいから、現実がタイトになる。

相手の期待に応えようと、
望んで自分を犠牲にしたりする。

愛されるために、支配を受け入れる。

自分のためではなく、
相手のためになることをしなさいとか、
それを喜びにしなさいとか言われると、
私には、「支配されなさい」と聞こえてしまう。
どうにも胡散臭く、懐疑的だった。

たぶん、実際にやってみたら、わかるのだろう。
人のために何かできる自分である喜びが。

けれど、面倒臭い私は、
視点を変えることにした。

なぜ、私は愛されたいのだろう?

そして、そもそも私の愛という概念が
間違っていたのかもしれない。
と、思うに至った。

愛されるために支配を受け入れるということは、
相手の言う通りにしていれば、
望み通りの愛され方をされるという打算。

更に、不平を言いながらも、
支配を受け入れることができるのは、
強者に従う動物的な本能というより、
私にとって、それが愛の雛形になっているから。

幼い頃の家族関係から導かれた最適解。

愛されたいという最優先事項に、
楽に生きてゆきたい願いを付け加えた結果が、
責任を委ねる被支配者という都合のいいポジション。

案外、支配したい欲求も強いのかな?
力量がなくて、よかった。
有能だったら、パワハラ上司になってた。ふう。

ただね、楽に愛されて生きたいのなら、
わざわざ支配関係を選ぶこともなかったはず。

責任はないけれど、自由もない。
常に自分以外の概念を優先しなければならず、
反発する自分自身を攻撃し続けることでもある。

心が休まる事がないわけで、楽とは言えない。
なのに、
当たり前のようにそれを選び続けている。

それって、愛されたいというよりも、
依存関係に安心感を覚えるとか、
依存を愛だと勘違いしているのでは?

私が愛だと思っているものは、依存かもしれない。

だとすると、これまでの人生に説明がつく。
社会からは拒絶されるのも、居心地が悪いのも、
依存先が見つからないから。

私は、愛されたいのではなく、依存したいのか。
依存させて欲しいと、媚を売ってきたのか。

だから、
いい人であろうとするし、
嫌なことでも引き受けるし、
読めない空気を読もうと
頑張って疲れ果てるのか。

誰のせいでもない。
私の依存心が、今ある現実。

依存するために、相手を見極める。
それが、ジャッジをやめられない理由かも。

依存させてくれる相手かどうか。
依存されることを、
心地よいと感じる相手かどうか。

比較してしまうのは、
そうすることで依存的な心地よさを得られたから。

依存体質である自覚はあったけれど、
人を対象にしているとは思わなかった。

むしろ、譲ってあげている感覚だった。
感じの悪いことに。
依存させてもらっておきながら、
どえらい上から目線でした。

支配される被害者と思い込んでいたものの、
実は、そんな依存関係を自ら求めておりました。

自分を犠牲にする辛さは、
依存関係を心地よく感じるための代償…??

いや、報われなさすぎる。
止めよう、依存。
全然、割に合わない。

責任とれば、もれなく自由がついてくる。
実害のない相手に文句を言われる謂れもない。

私が求めていた自由って、
支配ではなく、依存からの脱却なのか。

支配や依存関係ではない人間関係って、
なんなんだろう?

そこになら、建前ではない喜びがあるのかな?
他人の幸せを自分のこととして喜べるような。

羨ましくは思っても、
僻んだり、妬んだりせずにいられるのかな?

正直に、偽りのない本音を解放できる?
自分の本性を恐れずにいられる?

完全なる内心の自由が、
そこにありますように。


2020年8月8日。noteを始めた。

意識が変化することはあっても、
さして日常は変わらないのは、
依存する心地よさを選んでいたから。
それを愛だと勘違いするほどに。

お酒も、甘いものも、ダラダラすることも、
「やめるべき」ことだった。

けれど、
私を依存させてくれる「心地よいもの」たち。
愛されているという体感を与えてくれるもの。

体に悪くても、スタイルが悪くなっても、
愛されている体感がないよりはいい。

何の生産性もない怠惰な行為が、
愛されているという体感を生み出す。

依存以外に、心地よく感じる関係性がないことが、
私の問題であり、依存を選んでいる限り、
依存関係以外を不快と思うようになって
しまうことが、依存の問題な気がする。

全てではなくとも、私の人生の辛さは、
依存を心地よく感じてしまう癖にある。

愛されたいのは、自我だ。

作り上げた自慢のキャラを認めて欲しいから、
自我を認識して欲しい人を探している。

挙句、相手の自我を攻撃したり、
キャラクターに文句を言う羽目になる。

私たちが作り上げる自我のキャラは、
全てが唯一無二のオリジナルだから。

相手を個人とか、性格として認識するのではなく、
別の個体であるけれど、中身は同じ〇〇
とか思えればいいんだけどな。

例えば、全く等しい命とか。

なら、その発露の結果を解釈している
私という自我の物語しかなくなる。

私と相手の命が出会い、
互いの命は、体を使って活動し、
なにかしらの結果を生み出す。
その結果としての現実を、
私の命が体感し、解釈している。

それが、私の現実。
けれど、現実は、単なる命の活動。
なんてね。

これが、3年noteを続けた成果です。

来年の今頃には、
依存心を手放せているといいな。

自我に巻き込まれずに、
自我が幸せな物語を語っている様子を
見守っていられたら、私も幸せだと思う。

心からそう願っている。

そして、2020年の私へ
noteを始めてくれて、ありがとう。

fumori

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