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自分の理想を選んでいたから、現実が理不尽だったのかも。

「多角的なものの見方ができない人だね」

その通りだと思った。
私には主観しかない。

相手の立場に立ってとか、
短所ではなく、長所を見るとか、
言われたことより、されたことより、
してもらったことを思い出すとか。

よく見聞きするし、
おっしゃる通りだろうよ。

ただね、その視点をどうしたら持てるの?
という話なのですよ。

そんな不貞腐れ気味の私に、
大いなる課題がやってきました。

父への謝罪と感謝の手紙、とな。

母が亡くなってから、
二人で暮らしていた時期があり、
日常の半分は口喧嘩をしていました。

本音で向き合う事に疲れ、
いつからか波風立てないことを
優先するようになりました。

仲良くするには、私が我慢するしかない。
それが、大人になる事だと思っていました。

けれど、
謝罪と感謝という縛りがある手紙を
書こうとしたら、びっくりするほど
スラスラ出てきたのです。

涙ながらに、書き殴った下書きには、
そりゃもう、謝罪と感謝しかなかった。

やってもらったことばかりだったし、
大好きだし、父の娘でよかったとさえ
思っていたのでした。

私には、立派すぎる父だった。

そのことに気づくまで、半世紀かかった。
出来の悪い娘には、過ぎる父親だった。

そして、その立派さは、
もしかしたら父自身が自覚していても、
どうにもならない欠点の裏返しなのかも。

口は悪いし、意地も悪い。
反面、頼りになる。非常に。

頼んだ事以上のことに配慮できるし、
私が望む以上の結果をもたらしてくれる。
父に頼めば、安心だった。

そんな圧倒的な信頼感の裏側には、
欠点を補うためという理由も
あったのだと思うのです。

自覚しながら、どうすることもできない。
そんな仕方がない自分をカバーするため、
向上しようと努力した結果かもしれない。

なにより、父を許すことができない私が、
本当に許せなかったのは、自分なのでした。

私自身の欠点をどうしても許せないから、
父に当たり散らしていたのです。

最低の自分を受け入れ、大凡、自己受容
できたと思っていたけれど、全然でした。

たぶん、本当の私は、闇の濃度が濃い。
自分でもビビるくらいに。

だから、まともに向き合えなかった。
呪われそうなくらい陰湿で、底意地が悪く、
人を蹴落としても出世したいとか、
思うような人間性なのかもしれない。

だからこそ、光に憧れてたのかも。
そう言う自分でいたかったのかも。
例え演技だとしても。

単に、自分が怖かっただけなのかな。

自分を怖がったって、逃げ場がないのにね。
それを認めることしかできないのにね。

現実を受け入れられなかったのは、
私自身が闇側の人間なのだと
認めたくなかったから。

だから、
頭の中に理想の王国を作り上げて、
そのルールに反する現実を排除しようとしてきた。

それが、理不尽な現実の正体。

謝罪と感謝という縛りで父を見たら、
謝罪と感謝と、多少の文句しか出てこなかった。

つまりは、そういうこと。

私は、あるべき父親像を優先して、
やってもらえなかったことを数え上げていた。

リアルな父を見ていなかったのではなく、
理想の父親像との比較で父を評価していた。

本当に、何様??
どこから目線の子供だったんだろう。

赤ちゃんから育ててくれた親に対して、
人間としては対等とかさ、
そんなレベルじゃないじゃんね。

父に甘やかされて、四半世紀。
父と対立して、四半世紀。
半世紀を経て、やっと現実に向き合えた。

現実が、答え。
最善の最適解。

育ててくれる以上の喜びを、
愛を与えてもらっていた。

私にとっては、生まれてから
父がいるのは当然だったけれど、
父の人生からしたら、
私は途中参加の家族だった。

当たり前ではなく、
父に受け入れてもらったから、
一緒に過ごすことができた。

父がいない可能性だってあった。
こんなにも長く親子を続けて
いられたことが、奇跡だった。

私にとって、
父は人生の全てに存在するけれど、
私は、父の人生の一部に過ぎない。

途中参加のついでなのだ。 

だとしたら、
父がしてくれたことは、全てギフトだった。
与えられない可能性だってあった。
私は運が良かった。

口はともかく、人間的に尊敬できる
立派な父に育てられ、愛され、
私にはその期待が重過ぎたけれど、
それが、奇跡的なラッキーだった。

謝罪と感謝に限定すれば、
そんな風にも思えるのです。

どんな世界を見たいのか?

意識次第で過去は変わる。
なら、現実だってそうなのだ。

あるべき理想と比較する限り、
不満しか生まれない。

納得できなくても、現実が最優先。
だって、答えなんだもの。

理想の世界は、私の頭の中にしかない。
それを振り翳して、現実が変わったとする。

その世界って、今より本当に快適?

私にとってはではなく、
周囲の人にとっても、喜ばしい現実?

私の中の理想では、現実は回らない。
それが、結論。

もちろん、
私の理想が間違っているわけではない。
むしろ、私の理想があるべき未来だ。

けれど、
現実が私の理想と違うからといって、
なにになる?

騒ぎ立てて、歯向かって、どうなるの?

現実が最善なの。
変化しないというのではなく、
今を否定しても、未来は苦しくなるだけ。

より良い未来を望むなら、
今を否定しないこと。

理想と違う現実を優先した上で、
変えたいなら、変える努力をすればいい。

今ある現実を、
理念や制度や倫理や道徳という
一方的でパワフルな理由で変えない。

誰かが傷つくから。

既得権益のあるパワフルな立場の人を傷つけたら、
既得権益のない下々は、抹殺されます。

それが、現実です。

願えば叶うものではなく、
理不尽を受け入れた上で、
変える努力をするものなのかもしれません。

たぶん、受け入れられるなら、
変わると思うんだけどね。

理想を捨てるのではなく、
比較せず、現実を優先する。

現実は、私にチャンスを与え続けている。

理想を貫くか、現実と妥協するか?
問われていたのは、その二つ。

私は理想を選び、理不尽な現実を生きた。

と言うことは、
理不尽な現実を優先すれば、
いつかは理想が叶うということなのだとも
思うのですよ。期待叶う。

現実を否定しないこと。
それが、全て。

その上で、現実が与え続ける
チャンスを受け取り、選択する。

今ある現実を。

それって、変化じゃなくて、
現状維持を選んでいると思うじゃない?

逆なんだよね。

今ある現実を優先するということは、
私の中の理想を変化させること。

我を張って理想をえらびつづけることは、
確かに勇敢かもしれないけれど、
現実以外の妄想を選ぶなら、変化はない。

現実に即した選択をする。
それが、理想と違うなら、
非現実的なのよ。今は。

いずれ、その理想は叶う。たぶん。

だから、今は現実を優先する。
その上で、判断し、選択する。

それは、迎合ではない。

私自身の意思で選び、
私の理想を諦めてはいないから。

ただ、選べば良かったんだよね。
価値観を変えるどうこうではなく、
価値観をそのままに、
理想ではなく、現実を優先する。
それだけのことだった。

不器用すぎる自分が愛おしい。

これまで、理想のために
辛い思いをさせて、ごめんね。

たぶん、きっと、間違いなく、
現実は変わる。

今ある現実を受け入れ、
頭の中の理想が変わることで、
未来は理想に近づいてゆく。

現実創造って、
こういうことかもしれない。

昨日とは違う現実を生きてゆこう。
現実はチャンスを与え続けている。

問われている選択は、
現実か、理想か。
リアルか、自分か。

自分や理想を選んでいる限り、
変わらないを選択している。

辛い現実は、変化のチャンス。
その価値観、いらねーんじゃね?
そう言われているのかも。

理想ではなく、現実を優先する。
それが、主観ではない視点なのかもしれない。

fumori

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