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私が裁かなくても、みんな自分で自分を裁いているのかもしれない。

私は、卑怯だ。

数日前の出来事を思い出しては、
自分を裁いている。

裁く私と裁かれた私を
どうにかしようと焦っている。

なぜ、私は自分を責めるのだろう。
なぜ、私は責められなければならないのだろう。

一つは、私の中にある純粋性。
悪く言えば、完璧主義。白黒思考。

その行為を卑怯で許されないことにしているから、
責め裁かれている。

二つ目は、因果応報。

与えたものを与えられるのなら、
私は卑怯なことをしたのだろう。

自覚は、ある。
全然、別件なのだけれど、
そうではないと言い訳していたけれど、
内心、後ろめたいと思っていることがあった。

後ろめたさを正当化していたら、
卑怯な私が現れた。

引き寄せがあるかないかは別にして、
嘘みたいに綺麗に引き寄せてしまった。

けれど、問題はそこではないと思うんだ。


卑怯だと自分を責めるのは、
それをされて嫌だった過去があるから。

傷ついたから、許されないことになった。

許されないことをした相手が悪い。
私は、被害者だ。

そのポジションによって、
今度は卑怯な自分も許されなくなる。
なぜなら、私は加害者だから。

傷ついたことは事実だとしても、
本当に私は被害者なのだろうか?

相手は私を傷つけるために、そうしたの?

私が傷ついているだけでは?

それを許されない事にしたのは、私。

そうされたら許さなくていいと決めたのも、
それをする自分を許さないことにしたのも、
全部、私が選んだこと。

なら、なぜ、自分を許せない決まりなんか選んだの?

傷ついた私と、許されない事に決めた私。

それは、傷ついた私を守るため。
同時に、傷つけた相手を責めるため。

私は悪くないのに、傷つけられた。
そんな被害者ポジションを選んだから、
今、加害者の自分が裁かれている。

傷つけられた私は、嘘なんだ。
そうされて嫌だった私。

傷つくのはプライド。
それを守ろうとして、
相手を責め、許されない自分を生み出した。

真実は、嫌だった私と、
許されない事に決めた私がいただけ。

なら、許される事にすればいい。

嫌なことはしないように努めるけれど、
してしまったら、謝ることしか出来ないでしょう?

許されるかどうかは、私が決めることじゃない。
それが、許されないことかどうかも、私にはわからない。

された相手が選ぶ事だから。
私が許さないと決めたように。

世界の理を決めるのは、私ではない。

私が裁かなくても、
みんな自分で自分を裁いているのだろう。

なら、許せないことを私が決めなくていい。

嫌な思いをしないように、
嫌な思いをさせないように、
気を配っていたらいい。

それでも、自分と同じ人はいないので、
悪気がなくてもそうしてしまうだろう。

そして、無自覚に気付かされることがやって来る。

無自覚に相手の嫌なことをして、
別の相手から嫌なことをされて、
被害者になって傷ついて、
相手を加害者の悪者にして、
許されない事に決めて、
なのに自分がそれをしてしまい、
許せない自分を生み出し、責めている。
辛い。苦しい。こんな現実から逃げ出したい。

うん。
なんかこのパターンこそ、私の人生だと思う。

自分を被害者にすること。
相手を加害者にするためのルールを作る事。

それが、理不尽な現実の正体だったのかもしれない。

fumori

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