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不幸せだったのは、母になろうとしていたから。

幸せになることが、生きる目的だった。

それを取り下げることで、
今の自分を認めようとしてみた。

なのに、
今度は、幸せと歓びにコミットしよう!!
だってさ。

何を信じようと自由だけれど、
その極端から極端に走る感じは、ダメと思う。

ダメじゃないけど、
私が求めている世界観ではない。

自我が極端に触れたとて、
「へ〜今度はそういう感じ?」
って、落ち着いていたいんだよね。

「また変なこと始めてる」
「うわっ。大丈夫かな?」
「ま、前回もなんとかなったし?」
「なんとかならなかったら、それはそれで見物じゃね?」
「面白そうだし、とりあえず覗いとこ」

そんなノリで、鷹揚に構えていたいのよ。
理想はね。

それが出来ないのは、幸せに執着しているから。

幸せとは、自分自身であること。現時点では。

なので、
自分であるために幸せを諦めるのは、
違ったかも。

危うく、幸せじゃない私を
デフォルトにするところだった。

基本的に、私は幸せ。
生きているだけで幸せ。
そういう設定にしたんだった。

今は思えなくても、朝から頭痛がしてたら、
健康って最高!ってなるじゃない。

若さに嫉妬するくらい老いた健康なのにね。

今の健康なんて、10年前の二日酔いより
不健康な状態なのにね。

そう思うと、今、不幸だと感じていても、
10年後の私からしたら、羨ましかったりするのかな。

自分という仮面で苦しんでいる今に?
幸せじゃないから、幸せになりたいと願うこの私を?

ねえ。幸せって、なんなんだろうね。

自分でいることが幸せなら、
今悩み苦しんでいる私だって、
幸せなはずでしょう?

より良い幸せを求めるから、
今が物足りなく感じるだけで、
今の私は、別に不幸な訳ではない。

それどころか、
10年後の私からしたら、元気で若くて、
やろうと思えばなんでも出来る可能性に
溢れているのかもしれない。

私は、それが悲しいのだろうか。

老いて、いつか確実に死ななければならない
私を悲しんでいる。

認められない。あり得ない。消えたくない。

そんなこと言ったって、人は確実に死ぬ。
泣き喚いたって、無駄。
思考は、クールにそう言っている。
その通りだともわかる。

なのに、心がついていかない。誰の?

自我、かな。


10年前の私は、今より心が荒んでいたけれど、
それを跳ね除ける現実的な体力と
ネガティブな感情をバネに牙を剥く気概があった。

周囲からしたら、迷惑なだけだったと思うけどさ、
それって、自分の可能性を信じていたから出来たこと。

頑張ってもダメだったし、体力も衰えたし、
あとは加速度的に老いるだけだし…あれ?
何のために生きてきたんだっけ?

振り返れば、何もない人生。
前を向けば、老い。その先にある死。

これまでは、自分の不足を補うことに必死で、
生きる辛さにしか目が向いてなかったけれど、
むしろ、死から目を背けるためだったのかも。

母が亡くなってから、
ずっと死を意識して生きてきた。

母のように生き甲斐のある仕事をしたい。
母とは違って、誰かに尽くすのではなく、
自分の人生を楽しみたい。

それが私の生きる目的だった。

結局、母が基準だった。
母と比較して、生き方を選んでいる。

なぜ、母だったんだろう?

私は、お金持ちになりたかったんだよね?
スーツ着て、颯爽と働きたかったんだよね?

母を基準にしたら、それは無理だよ。

お金持ちの人とか、いいオフィスで
働いている人を参考にしないと。

比べるのもどうかと思うけれど、
あの母をベースしてお金持ちになろうとしたら、
物凄く苦労するよね。
成り上がるしかないもの。

つまりさ、私はお金持ちになりたいし、
眺めのいいオフィスで働きたかったんだよね?

けど、セルフイメージは、母。
軽トラ乗った農家のおばちゃんなのよ。

だから、なんだかおかしなことになってるんだよね。
辻褄が合わないことばかりの人生になってる。

私の生きる基準は、
母のいいところを踏襲して、
母の嫌だったところを避けようとしている。

いいとこ取りしようとして、
大惨事になっているわけだ。

母をベースに人生を描いているから。
主人公は、私ではなく母だから。
それを、書き換えられないでいる。

母に執着しているらしい。
認めたくないけど。

手放したくないくらいに、
母のことが好きだったのかな。
認めたくないけど。

母を基準に人生を生きなくてもよかったのに。

母が亡くなって、悲しかったけれど、
自由になったとも感じた。

なのに、母が私に成り代わっていた。

自我なんでも存在しない。
なのに、書き換えられなかったのは、
私ではなく母を書き換えようとしていたから?

心の奥底にある悲しみを思い出す。

頑張ったって報われない。
後悔しないようにしたって、後悔はする。
そして、人はいつか必ず死ぬ。
死にたくなくても、死んでしまう。

母の死と共に葬り去った感情は、
生への諦めみたいなもの。

母を生きるつもりはなかったけれど、
幸せの基準が、母だった。

たぶん、嫌だと言いながら、
母に憧れていたのだと思う。

いつも人の輪の中にいた。
人に誇れる仕事があった。
周囲から必要とされていた。

私には、ないものばかり持っていた。
そっか。好きだったというより、
羨ましかったんだ。

母のように、人に囲まれて、
自分で采配を振う仕事をして、
周囲から認められたかったんだ。

母の娘として、立派な人間でいたかった。

それが、私にとっての幸せ。
生きる意義だった。

母と張り合っていたのね。
母の土俵で戦っても、勝てる訳ないのに。

私は、母ではない。
なので、母の幸せを求めても、
私は幸せではないのです。

今、私が幸せだと思っている幸せを
手放すことができたら、
探している幸せが見えたりするのかな。

母ではなく、私の幸せを生きると決めたなら、
何者でもない自分を認められるのかな。

何かをするからではなく、
私として存在することに
幸せを感じてくれたりするのかな。

自分であることに、
生きている今に、
幸せを感じられたら、
最強なんだけどな。

母になろうとするのは、辞めよう。
私の心地よさを優先しよう。

fumori

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