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ジレンマを生きる方が、健全なのかもしれない。

誰にも言えないし、
言ったところでどうにならないから
言うつもりもないのだけれど、
納めておくには、心の容量が足りない。

吐き出す場所が、必要だった。

noteを始めた理由は、
もう少しポジティブな建前だったけれど、
それが、嘘偽りのない本音。

振り返ってみないと、自分の本音がわからない。
それが、困った人生の始まり。


noteを始めて4周年のバッチが届いた。

抱えきれない想いを吐き出しているだけなので、
誰かに共感してもらえるなんて思わなかったけれど、
フォトを使って下さったり、
ごくごく稀にスキして貰えたり、
肯定的な反応に出会うことができて、
とても嬉しかったです。ありがとう。

現実の理不尽に怒り、悲しみ、恨みさえ抱いていた私ですが、
出来事や他人や自分に対して、
少し距離を置けるようになった気がしています。

もちろん、未だに荒ぶっておりますし、
コントロール不能に陥りますよ。

あんなことしなきゃよかった。
言わなきゃよかった。
もっとこう言っとけば…
なんて後悔は尽きません。

失敗したり、感情的な自分を恥じていることも、変わりません。

ただ、なんていうか、
荒ぶらないでいようと頑張ってきたけれど、
多分、一生、命が尽きる瞬間まで、
荒ぶっちゃうんだろうな、
と思うようになってしまいました。

いい悪いじゃなく、
不貞腐れて諦めるでもなく、
何と言いますか、
生きるってそういうことなのかな、と。


生きるとは、なんぞや?

なんて大層な問いには答えられないけれど、
生きていない状態以外を、生きているとするなら、
死は、停止した永遠。
生は、変化し続ける無限。巡り。

変化しない状態が、死なら、
変化している状態は、生ならでは。

なら、感情的になることも、恥じることも、
むしろ、ナチュラルなことなのかもしれない。

解釈や認識を変えて、
感情をコントロールできるようになろうとしてきたけれど、
感情の起伏や変化があることの方が当たり前だとしたら?

荒ぶったり、穏やかだったり、
誰も面白がらないことを楽しいと感じたり、
人と同じであることに、安心したり。

変化することが世の必然なら、
そこを生きている命だってリズムには従っているはずで、
同じ命である人間だけが変わってはいけないのは、なぜ?

良くも悪くも、
刻々と変わってゆくことがナチュラルなのに、
自然のリズムに支配される人間は野蛮であって、
理性や知性があるなら、コントロールできて当然
って発想が、不自然というか、無理ゲーなのでは?

だからって、人の迷惑を考えず、
野生のままに生きることが正しいとかは違うんだけれど、
変化とか、感情とか、人間としての本性を否定した上での
道徳観念をこの世の真実、もしくは理想の社会と思い込むのも、
どうなんだろうね。


この世界に、現実に、
信じるに足る真実があって欲しい。

そう願っていたけれど、
この世界は、一つの事象から、
二つの価値観を生み出す相対的な世界なので、
たった一つの真実というのは、
案外、危ない思想なのかもしれない。

神様への絶対帰依みたいなことができる聖人は別にして、
凡人である私が絶対正義を説いたところで、
それは、絶対じゃなくて、相対的な正義でさ、
主観から逃れられないからこそ
絶対に至ろうとすれば、むしろ、偏ってしまう。

相容れない二つの世界の間で悩んでいる方が、
寧ろ、フラットで安全な気がする。
逃げかもしれないけどね。

以前は、そんな不安定な状況に耐えられなかったから、
正解が欲しかった。

正解さえ守っていれば、誰にも非難されずに、
正しく幸せに生きられると信じていた。

正解を信じることが、
私を不幸にしているなんて思ってもみなかった。

幸せになりたいという願望が、
今ある不幸を生み出していた。

人間には選択の自由がある。
けれど、無意識に設定された観念に逆らうことはできない。

逃れようとするのではなく、自覚すること。

意識は、情報空間に隷属しているし、
私という自我は、私ではない。

私は実在せず、
主観から逃れられられない。

できる唯一は、主観を自覚すること。

今の私はそう思っている。


世の中は矛盾しているから健全で、
ジレンマを生きるということが、
私にとっての生なのかもしれない。

全てを受容しきるのは、
生が終わった後になるのかな?
残念。

仕方がないから、できる限り距離を置いて、
矛盾する振れ幅を生きるとしますか。
嫌だけど。

主観を自覚してみよう。

fumori

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