なぜ、私の人生に許可や承認や解釈が必要だったのだろう?
人が苦手なのは、
私が無自覚に人に依存しているからかもしれない。
なので、依存しているという前提で考えてみる。
私にとって良い人とは、
一緒にいて安心できる人。
私が安心できる相手とは、
優しくて、私を否定しない人。
ダメな私でも、頑張っていることを認めてくれたり、
失敗しても、許してくれたり、手伝ってくれたり、
頼りになってくれる人。
甘やかして、依存させてくれる人。
だとすると、
殆どの人間関係は苦手になるよね。
そんな人、滅多にいないもの。
むしろ、いたら困る。
依存したいのにできない現実は、
自立を促すための安全策でもある。
けど、依存が心地いい私には辛い。
なのに人付き合いからは逃れられない。
ということで、
依存しないキャラを演じるのですよ。
本当は依存していたいだけの人間が、
真逆のしっかり者のデキる奴に
なりすまそうとするのだから、
そりゃ、疲れるよね。
なんでそんな向いていないことをするかと言えば、
嫌われたくないからで、
なんで嫌われたくないのかと言ったら、
好意を持ってもらえれば、依存できるから、かな?
依存とまでは言えなくても、仲間意識とか。
人の顔色ばかり見て、ジャッジしまくっているのは、
依存できない相手に依存的な態度を取って、
はねつけられることが怖いのかな。
愚痴や悪口に耐えられないのは、
私の依存心が居た堪れなくなるからであって、
相手は真っ当な精神の持ち主なのかもしれない。
依存関係にあると、相手を完全には否定できない。
悪意であっても、
なんとか好意的に解釈しようとしてしまう。
そのくらい許してあげなよ、と思ってしまう。
私だって、我慢しているのだから…
それが本音かも。
もっと甘やかして、受け入れてあげてよ。
と、私の依存心が疼くのかも。
自分の苦労を、相手にも強要したいだけ?
了見が狭いから文句を言うのではなく、
悪意や心を曇らせる考え方や行動を
ちゃんと見極め、諌められる人が
愚痴や悪口を言う人の正体だったのかもしれない。
勇気を持ち、自分を律して、
自分自身に言い聞かせている人だったのかも。
さて、どうしたらいい?
依存に愛や安心感を感じているから、
それを悪いことと思えずに、
現実がタイトになってゆき、
辛い現実から逃れるために
益々、依存を深めてゆく。
けど、依存を心地よく思っているなら、
それを嫌いになることはできなくない?
今、認識している現実が、
自我の意味づけでしかないことを
常に自覚する、とか?
相手のキャラや、自分自身、現実の出来事を、
自我は解釈し続けている。
頼んでもいないのに、人生を実況中継している。
けれど、それらは真実ではない。
切り抜かれたエンターテイメント。
完全な嘘ではなくとも、
意図的に組み合わせて、思考を操作している。
〇〇な私も、あの人も、実際には存在しない。
自我の目論みと違うから、
現実を理不尽と認識する。
あるのは、今。
結果としての現実と、行動した自分や誰か。
それを過去のデータとリンクさせ、
自我が解釈し、人生という物語にする。
あるのは、現実。行動する体。活動する命。
自我を解放する意識もあるのだけれど、
私には自我と区別がつかないから頼れない。
残念なことに。
なので、
存在するのは、私ではなく、体と命。
実体としての姿形は違っても、
生きていられるのは、
誰もが同じ命を与えられているから。
自我の目線を離れれば、
私たちはみんな同じ活動する力でしかない。
なんて割り切れたら、
社交なんて楽勝なんだろうな。
相手も自分も、自我の作ったキャラでしかなく、
そもそもは完全に対等で同等の命と思えたら、
比較を使って、憐れむことも、
妬むこともしなくて済むだろうし。
二度と口を聞きたくない!
と思った相手とでも、今日には、
わだかまりなく接する事ができそう。
そんな社交的な未来があるのなら、
ぜひとも体験してみたいものです。
相手に依存するためには、
依存したがっていることを気づかれてはいけない。
相手というより、自分自身に。
選べるようになってしまうから。
依存する安心感か?
依存しない自由か?
あれほど望んでも手に入らなかった自由は、
依存による安心感を失いたくなかったからかもしれない。
赦すことも、認めることも、幸せになることも、
泣くほど願った。
間違いは犯しても、
責め続けられるほど酷いことをした?
誰かに認めてもらうことはできなくても、
それなりには頑張った。
飛び上がるほどハッピーでなくとも、
不幸を嘆くほどではない。
望んでおきながらなんだけどさ、
赦されなくても、
認められなくても、
幸せでなくたって、
そもそもいいのでは?
なぜ、私の人生に、
許可や承認や解釈が必要だったんだろう?
それが、依存というものなのかもしれない。
依存する私は、
打算的で、人の顔色を伺い、ジャッジして、
相手の望むような言葉を選び、行動をする。
そして、相手が依存を拒絶してきたら、
腹を立てたり、自分はダメだと落ち込むのだ。
なんか面倒くさくて、気持ちの悪い人じゃない?
これをいい人だと思ってやっていたのだから、
恥ずかしさを通り越して、いたたまれない。
止めよう。依存。
依存している私は、命として対等でも、
キャラ的には、とても恥ずかしい。
できないながらも続けていれば、
いつかは社交楽勝な人生にシフトしているかもしれない。
そんな未来に期待していよう。
fumori
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